ぼくが公園のベンチで寝ているスキに、世間ではまたぞろ事件だ。「犯行後ネットカフェへ 『母殺害』高3 死因は失血死 タクシー呼び自首」(5月16日付・東京新聞)。
福島県会津若松市で切断した母親の頭部を持ち自首した県立高校三年の少年(17)が殺人容疑で逮捕された事件で、少年が十五日朝、インターネットカフェから電話でタクシーを呼び、約一キロ離れた会津若松署に出向いていたことが同日、分かった。県警は司法解剖の結果、母親の死因は頸(けい)動脈切断による失血死の疑いと発表した。
調べでは、少年は住んでいるアパート二階の部屋で、寝ていた母親の頸動脈を切って殺害、十五日午前一時半ごろ、首を刃物で切断した疑い。少年はその後、市内のインターネットカフェでDVDを見て過ごした後、タクシーに乗り、同日午前七時ごろ、母親の頭部を入れたショルダーバッグを携えて同署に自首した。
読売新聞の社会面でも「ネットカフェ」の文字が大々的に躍っていたが、だからなんなのだ? 犯行後にネットカッフェに行って好きなDVDを見た。それはわかりました。気持ちを落ち着かせようとしたか、あるいはもう見られないから最後に見ておきたいと思ったのかも知れないな。いずれにせよ、まぁなにかの理由で、あるいは理由などなく、ともかくネットカフェに行ったと。うん、だからそれがどうしたというのだ?
ネットカフェ難民もそうだけれど、どうも「ネットカフェ」というキーワードに、マスコミ各社は興味津々らしい。それも「ネットカフェは犯罪の温床になっている」だとか、社会悪としての位置づけを世間に広めようとしているようだ。人々は「敵」を探すことに必死である。「敵」はそんなところにはいないことに気づきもせずに。あるいは気づいていながら。