元々「こだわる」とは、どうでもよい仔細なことにとらわれるという意味で、「拘泥」と同義語だった。近年になって「こだわりの一品」などという、個性を主張するための使い方をされるようになったが、本来は悪い意味で使われたことばである。
なにかにこだわるほど、人は自由を失ってゆく。なにかにとらわれるほど、人の考えは狭くなってゆく。なにかに拘泥するほど、人は柔軟さをなくしてゆく。
剣道に「止心(ししん)」と呼ばれるものがある(広義では「居つく」とも)。これは注意が一ヶ所にとどまって自由に動けなくなる状態で、打突すべき機会を逃したり隙を突かれる元になることから戒められている。要するに、こだわっている状態である。
室町の禅僧・沢庵はいう。
「葉一つに心をとらわれそうらわば、残りの葉は見えず。一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申しそうろう。これを得心したる人は、すなわち千手千眼の観音にてそうろう」
ひとつの物事にとらわれるな、全体を見ろ、という。ひとつの視点だけでなく、多角的に見ろ、という。とどまるな、常に流れろ、という。流れぬ水はよどむ。よどんだ水はいつかは腐る。
「生き方」にこだわらなくともよいのだ。「生き方」にこだわることこそが、まさに「生き方」をよどませる道だから。