近しい間がらでの人間関係は、おなじ土俵、おなじ手段、おなじルールでやりあう限りに於いて、相互作用が基本にある。たとえば見知った間がらで起こる口喧嘩などは、片方が一方的に非難されるべき対象ではない。たとえ片方が一方的に罵ったとしても、通常もう一方にはそのことばを相手から引き出すなにがしかの言動があった、と考えるのが人間関係の力学的な理屈に合う。ケンカはひとりではできないのである。
ホームレス支援をうたう、とあるブログで、近ごろおもしろい事例を見かけた。とてもユニークな援助をしているブログなのだけれども、現在は管理人さんとホームレスさんの交換日記を公開し、人々の耳目を集めている。交換日記といってもホームレスさんの日記とブログ読者のコメントが載るだけで、管理人さんの日記は載らない。厳密には交換日記ではないが、そこでちょっとしたトラブルが起こったのである。
管理人さんに会った際、なにかひどいことをいってしまったと思っているホームレスさんが、日記に反省の気持ちをつづったというわけなのだ。どのような状況でなにをいったのか、それはまったく書かれていない。客観的にはただ単に、ホームレスさんが自分を一方的に悪く思っている、ということがわかるだけなのである。
ところが、その後のコメント欄では驚くべきことが起こる。ブログの読者がホームレスさんをコテンパンに叩きのめしはじめるのだ。謝ったほうがいいだの、反省しろだの、許せないだのといった書き込みがダーッとつづく。4つのトピックで総勢50近いコメントがついているのだが、管理人さん側の問題について触れるコメントはふたつ程度であった。
重ね重ね申し上げておくけれども、客観的にはどのような状況でどのような会話がなされたのか、一切書いていないのだからまったくわからないのである。その中で、ホームレスさんは一方的に自分が悪いと書いているだけであり、しかも管理人さんはなにも書いていないのである。だいたいこのホームレスさんは日ごろから自身を「自業自得だ」といっている自虐的な人なのだが、にもかかわらず、ほとんどの読者は一方的にホームレスさんを吊るし上げにかかったというわけなのだ。
こいつはまったくすごい出来事であった。なにしろ、そのブログ固有のホームレス支援策を後押しする読者が、ふだんはこんなことを考えているのだということが、すべて白日のもとにさらされてしまったのだ。別のことばを使わせもらえば、つまり「化けの皮がはがれた」といってよい。支援する側とされる側の支配関係、高いところから低いところを見下すその視線、自分は善い人で相手は悪い人という思考の枠組み。そういったものがすべて透けてしまった瞬間だった。
さらに意味深いのは、事態収束のためか、管理人さんが発表したコメントであった。要するに、自分は非常につらい思いをして落ち込んだが、ホームレスさんにもなにか深い事情があるのだろうから許すし、これからも諦めずにホームレス支援をやってゆきたい、という内容なのだ。つまり、自分の言動にもなにか問題があったかも知れないとは考えておらず、自身を省みることを放棄しているのだった。
ぼくはこの一連のやり取りを読みながら、なんともやりきれない思いにとらわれた。
というのもぼく自身、最近とある顔見知りと、そうとうに激しい口論をしたからである。こちらにしてみれば向こうが悪い、向こうはこちらが悪いと思っていて、ほとんど罵り合いであった。けれど、終わってみれば、こちらもひどいことをいったし、相手にもそういう態度を取らせたのは、ぼく自身の言動に問題があったためで、元はといえば自分が悪いのだという程度には反省する。
幸いその顔見知りとはその後、自分が悪かった、いやこっちが悪かったという、これまた謝罪合戦が繰り広げられ、互いが反省して和解するという、比較的バランスの取れたかたちで関係の改善をみた。双方の立場はより対等に近くなり、ケンカの効用のひとつである「対等に近づく」役割は十分に果たした。けれど、だからこそ一方的にあっちが悪くてこっちがよいという終わり方、立場が対等に近づかない終わり方は、どうにも危なっかしくて見てはいられない。
人はよほど気をつけていないと、常に自分が正しいと思いたがる。とりわけホームレス支援などをしていれば、自分は善いことをしている善い人なのだと思い込んでしまいがちだからなおさらだ。善い人であるはずの自分が悪いわけはないので、つまり相手のほうが悪いと最初から思い込んでいて、反省の機会を放棄してしまうのだ。
同時に、ここには支配被支配の関係も見えてくる。援助される側が援助者という支配者にたてつけば、原因など明らかにされることもなく一方的にぶちのめされる。その絵図が見事に展開された、なんとも哀しむべきアクシデントを見た思いであった。