感謝、ということが苦手だ。ありがとうございます、感謝しています、毎度あり、どうも、サンキュー、ダンケシェン……。ことばにしてしまえばそれだけのことだけれど、胸の奥底から突き上げてきたものが口をついて溢れ出るための、本来その胸の奥に燃えたぎっているべきものが、ない。にもかかわらず、ぼくは平然といってしまうのだ。
「ありがとうございます」
と。
「陰ながら……」ということばには、どこか妖しげな魔力が潜んでいる。とりわけ日本人がこの言いまわしを好むのは、奥ゆかしさを美しいものと考える文化の影響かも知れない。これまで非常にたくさんの人たちから「陰ながら応援しています」という励ましをいただいた。ありがとうございます。
しかし、実際のところ、陰で応援されても役に立たない。仮に、学校や会社のゆき帰り、あなたがいつも眼にし、心で「陰ながら応援しています」と思っているホームレスがいたとしても、あなたは彼または彼女の役にはまったくなにも立っていないのだ。
応援は、その声が届かなければ価値がない。相手がその存在を知って初めて価値を生む。しかも、その行為に実質的な価値があるかないかさえわからないのだ。
近ごろ、ぼくの窮状を見かねた人たちからたくさんのサポートをいただいた。これは状況の改善という意味において、文字どおりきわめて実際的なサポートであったので、ぼくは当面の窮地を脱することができ、まぁいまだのうのうと生き長らえているというわけなのだ。
中にはこうした「一時的」なサポートを、一時的であるがゆえにその後に待ち受けている元の苛酷な環境を思って、かなり悩まれた方もいらっしゃるようだった。いっとき、サポートし、その後に再び無支援となることが、非常に残酷であると思われたらしい。たしかに、それも理屈ではあるのだろう。
ホームレス支援を批判する声の中に、
「本気で支援するなら、全私財を投げ打って援助するのがほんとうじゃないか」
といった意見がある。
バカじゃないか? と思う。
もちろんこういう人は、批判者であるという以前に、まずもってまったくなにも行動しない。ほんとうの支援には全私財を投げ打つことが必要で、それは到底できないから、本来できるはずのパンひとつ分けることさえも否定してしまう。そいつは偽善的、というわけであろう。初めから小指の先さえ動かそうとはしないのだ。
とんでもない大バカである。
たとえいっときであれ、たとえその後に再び過酷な状況が待ち受けていようとも、ただその瞬間の救いが永遠という時間に封じ込められて相手の中に残すプレゼントを、いったいどこの誰が否定できるというのだろうか。
感謝、ということが苦手だ。胸の奥底から突き上げてきたものが口をついて溢れ出るための、本来その胸の奥に燃えたぎっているべきものが、見当たらないことも多い。それでもぼくは平然と「ありがとうございます」といってしまう。
けれど、喉の奥になにか得体の知れない熱いかたまりが詰まるときには、むしろことばは容易に出てきはしない。そしてようやく絞り出したことばもおなじ、
「ありがとうございます」
なのである。
それだからこそ、伝えておかなければいけないのだと思う。
ありがとうございます、みなさん。