アナウンサーの村上知奈美さんが運営する「☆ブログ版☆東京ホームレス」とそのプロジェクトについて、先日のコメント欄で思いがけずオセロットさまと語らってしまいましたが、オセロットさまの「村上知奈美論」とでも呼ぶべきものがたいへんに秀逸なので、氏の発言部分だけを抜き出してまとめました。ぜひご一読あれ。
ところで、以前このブログでも触れられたことがあった“東京ホームレス”のブログを久しぶりに覗いたのですが、何時のまにか、一ホームレスの日記の掲載と対話が繰り返されており、物凄く恥ずかしいというか、息苦しいというか…。何かやりきれない想いを持ちました。主催者の方が何かをやりたい、というより何ものかになりたいということに捕らえられているように感じられて…。
実は、初めて彼女の日記に触れた時、当初、表現されていた(と私が思いこんでしまった)彼女の“迷い”にちょっと期待してしまったのです。この“迷い”が、マスコミに足を浸け、尚且つ、“女子アナ”という記号を背負いながら、“ホームレス”を介してインターネットというメディアにどう向かうかを意識し~そこに蠢く圧倒的な欲求にスッ転びながらも、今後、どんな言葉に結実してゆくのだろうと。尊敬する人物;アウン・サン・スーチーに、少し危惧しつつも。しかし、良い悪いでなく、健次郎さんがコメントされたところ(※編注1)に落ち着かれてしまったようです。そして、尊敬する人物は、いつのまにかジョン・ラセターに変わっていたのでした。
正直、私が村上さんに期待したのは、良心的と言われているようなドキュメントである程抱えている“ホームレス”の彫竜の類を、あるいはどこぞの社会学者の参与観察を、自らの“女子アナ”としての流通の仕方や、自らのボランティアプロジェクトさえダシにしつつ、ブログの実験的な表現において骨抜きにしてしまうような行為でした。無理だろうなぁとは思いつつも。なにせ、私は彼女の初期の日記の“迷い”に天然様に近い匂いを、読み取ってしまったのですから。おまけに前出ですがスーチーさんでしたし。彼女が「見えない人間」達の良き触媒になる日を祈りつつ…BGMは、もちろん「美しき天然」で……お~い、会員制の掲示板なんか使ってる場合じゃないぞぉ~。パニックルームでもあるまいに。 届いたかなぁ、届いてないだろうなぁ。
まぁ、どう転んでも、彼女は損はしませんなぁ。ここまでの蓄積は、フリーアナウンサーの彼女には、彼の世界で個別化を計る“売り”になり(別に悪いことではございませんが)、尚且つマスコミとインターネット、NGO、等の新たな実験情報の提供にもなる。ただ、現在の世を支える情報の在り方が“確からしいもの”であろうことが、とりあえず続き、それを軸に彼女が“売り”をやり、周りが“買い”続ける限りであり、その場合、健次郎さんは“存在していない人間”あるいは“ディシプリンの対象”でなくてはならず。…世の“確からしさ”のデッサンにおいて大きな振動を防ぐようにお互いが微震しながら安定を保っている各種メディア―特に“ホームレス”という“揺らし”は良い監視対象でしょう―の“あいだ”を冷徹に凝視しているクソッタレどもを彼女がどう思ってるのか。
彼女の“売り”を支える“買い”(※編注2)をやって、ハマっちゃった方々。彼女より、こちらの方がこわいのでは。恐らく彼女自身、そのこわさを日々感じてるんじゃないですか。んなこたぁねぇ~かなぁ~。感じてないとすればそれもスッゲェ~こわいなぁ。でもなぁ、こういうのって近いところでは’80年代のクソッタレなモロモロが、そのまま横滑りして来たような気がするんだけどなぁ。詳細な分析は今できないけど。
マスコミ関係者に限らずNGOから学者センセまで、以前から健次郎さんが指摘されているような“村上さんのようなもの”とそれを支えてしまう様々な力学に……何せこれは“ホームレス”に寄せて語っておけば良いことではないもんなぁ。それ自体“…のようなもの”の一つになってしまう……足音をしのばせて迫んなきゃなぁ。オセロットの意味ないもんなぁ。 ……読んでる方、不快だったらゴメンなさい。許してやって下さい。ロクな“生きざま”―“死に方”しやしませんから。
※編注1)健次郎さんがコメントされたところ
健次郎は村上さんを、「一般人に受け容れられやすく理解されやすい「明るく元気で前向きにガンバッているメジャー系ホームレス」を支援する人」と位置づけているので、それを指すものと思われる。
※編注2)買い
単に村上さんの推進する「歯磨きプロジェクト」において歯ブラシを買う、という行為じたいを指さない。