10日付の読売新聞・社説は、成人の日を受けて「『働く』ことの意味を考えたい」と題しているのだが、もちろんニートにも触れられている。
気がかりなのは、働こうとしない若者が増えていることだ。
~中略~
企業が採用を抑え、人材育成を怠ってきた影響は大きい。だが、若者の側も就労意欲をなくし、働くことに価値を見いだせなくなっている。
この社説、なにか変だ。「就労意欲をなくして働こうとしない」若者とは、要は自発的なニートのことだろう。非自発的なニートは「働くことができない」「働けない」状態なのだから、この社説の筆者は自発的なニートを取り上げて、なおかつその1種類しかいないものと認識しているように見える。
たしかに、メディアがおもしろおかしく紹介してバッシングの対象としたのは自発的なニートのようだが、今真っ先に支援を必要としているのは、焦りや不安に苦しめられていながら就業へと踏み出せない非自発的なニートの子たちだ。なにかこの、最近はすべて一緒くたに語られてしまっていて、非常に嫌な感じである。ちなみに、わたしが自分の記事で取り上げているのは、非自発的なニートの子たちである。自発的ニートについてはノーコメントとしている。
もうひとつ、なんとなく嫌なのは、ニートについての議論がとおりいっぺんのカタチで流れつつあることだ。とりわけ最近では『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(山田昌弘/筑摩書房)という本が好評のせいでもないのだろうが、
「将来に希望がない」
「社会に目標がない」
「世の中に夢がない」
「努力が報われない」
「働く意味が見出せない」
「やる気の喪失」
といった部分が強調される傾向がある。いや、わたしも自分でそういうことをいっているわけですが(苦笑)。
たしかにそうなのだが、今の社会がすぐに目標を与えられるようにはならないし、当分のあいだ、夢など持ち得る世にはなるまい。希望さえ、いつ与えてくれるようになるかわからない。劇的に外の世界がよくなることなどない。みんな、そんなことには気づいている。原因としてはまちがっていないのだけれども、ことさらにそれを強調するのみでは、むしろなおのこと閉塞感を強めるだけで終わってしまうことになりはしないだろうか。
社会などすぐには変わらないのだから、アテにしていればアッという間に年寄りになってしまうかも知れない。けれど、個人にできることはある。世の中は変わらなくても、個人は変われる可能性がある。社会を問題にするのは当然だが、しかしその一方で、個人が変化できる可能性に期待することで、一部の子たちは確実に社会へ出てゆけるようになるだろう。
果てなき鈍重な変化の中で、閉塞感に包まれて現状からだれも抜け出せないよりは、むしろ一部でも社会へ出てゆける可能性を探るほうが希望を見出せるように思えるのだが、こういう考え方はおかしいのかなァ……。これってつまり、わたしはまだ個人の力を信じているということに、ほかならないわけなんだけれどもサ。
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く | |
山田 昌弘 筑摩書房 2004-11 おすすめ平均 |