夕暮れに薄汚れた真っ黒なスーツを着て出かけ、朝方にうつろな瞳で帰ってくる。キマッているのだかいないのだか、パンツは丈が足りずにツンツルテンで、革靴もところどころが剥げあがっている。ぼくと眼と眼を合わせても、睨んでいるのだか無関心なのか、影のようにとおり過ぎてゆく男だった。
ホームレス施設が闇の中に寝静まったころ、屋外にあるトイレに立つと、入り口に黒い人影がうずくまっている。いちべつを交わしながら、しかし互いに無言である。
――こんな時間になにをしているんだろう?
その手には携帯。指が凄まじいスピードでキーの上を跳ねまわっている。ミミズみたいなコードがグニャグニャと伸び、壁のコンセントまで這いずっていた。
――なんだ、こいつ?
ゲームでもしているのか。
施設利用者は自然にグループ分けされてゆく。たとえば、ごくまじめな人をはじめ、ちょいワルぐらいまではおなじ集団になりやすい。根っから小ずるくいつも小汚いことを謀り、悪さばかりする連中は、そっちはそっちでかたまってゆく。横並びを好む人は横に手をつなぎ、縦に連なろうとする者は上下関係を構築して整列する。
そうして、両者の交流はほとんどない。このあたりは一般社会とおなじだが、ちがうのは両者がひとつところで生活していることだ。ために、ここでは常識やルールは通用しない。お題目や綺麗ごとも通用しない。個々人の持つ本質と本性が剥き出しになる。
ぼくがいたグループは、いつも誰かが菓子や果物や飲み物を手に入れてはみなにふるまうような、あるいはおやつ代わりに手づくりの料理を分けてくれるような、気のいい連中が集っていたが、やがて携帯男もいつの間にやら、その輪の中にいた。ワルが持つ、どこか崩れた雰囲気を身にまとってはいるものの、話してみればくだけた男だった。そうして不思議と仲がよくなり、時折、ファストフードでコーヒーを飲んだり、ちょいと買い物に出かけたり、ぶらっと散歩に出たりした。
なぜぼくなんかを相手にするのかと訊くと、
「健次郎さんみたいなふつうの人は、はじめてだからさぁ」
おもしろがっている。ぼくがふつうとは、よほど今まで周りが悪人だらけだったにちがいない。
そうして彼はいつものように、なにやら携帯をペチペチとやってはふたを閉じ、するとまたふたを開けてはペチペチとやり、そのうちどこかへ消えてしまう。電池切れだ。コンセントのある場所へ行くと、そこでまたペチペチやっている。
「いつもなにやってんの?」
「メールですよ」
――メールって、そんなに頻繁にやるものかぁ?
そうこうしているうちにもピーヒャララ。着メロなのだ。
やがて若い男の子が入所してきた。ふたり並んで、またしても携帯をいじりまわしている。なんなんだ?
「女ですよ、おんな」
――え?
ようやく謎が解けたのだった。
出会い系、なのである。
彼のメール相手とは出会い系やソーシャルネットを通じて知り合った女性、それが数人もいて、それぞれと活発にコミュニケーションを図っていたというわけなのだ。まさに筋金入りの女たらし! そうして男の子は、彼のご指南で出会い系の練習中なのだった。ぼくは呆れるというよりも、むしろその熱心さが妙におかしくて、へんに感心してしまったものだった。
あるとき、男の子が、相手とうまくコミュニケーションできずに困っていた。ぼくはちょっとイタズラ心を起こし、代わりに返事を書いてみた。なーに、これでもこちらはコミュニケーションに関しちゃちょっとウルサイし、文章だってちょちょいのちょいってなもんだ。これで大丈夫さ。どんなもんだい! うわははは! ところが、相手がウンともスンともいってこないじゃないか。なんだこの娘、ちょっとオカシイんじゃないのか?
くだんの彼に話すと、
「そんなこと書いちゃダメですよ!」
「え? そ、そーなの?」
そこで彼がさらに代筆をすると、あら不思議、きちんと返事が返ってくるではないか。なるほどこの男、コミュニケーションの達人なのだ。そういうわけでぼくはひれ伏し、彼は一躍、師匠となった。男の子は見習いであり、ぼくはさしずめ外野から余計な口を挟む見物といったところだった。
まぁそんな息抜きの遊びをしながら時が経ち、外野のぼくがなぜだか師範というお墨付きをいただいたころ、彼は晴れて退所していった。
そうしてしばらくのち、彼は納めるべき家賃を握り締めて、着の身着のまま、ひとりの女性のもとへと駆けつけた。突然、女性が家出をしてしまったという。しかし、諸事情から、彼の部屋には連れ帰ることができない。幸い、車があったと聞く。しかし、車上生活では、持ち金などすぐに底をつくだろう。
一度、ぼくのところへ電話があった。たいへんな状況にあることの説明がつづく。だが、金の話は持ち出さない。口調から、喉まで出かかっているのがよくわかる。けれど、口にはしない。施設の人間に金などないことがわかっているからだ。こればかりはどうにもできないのだ。
「みんなによろしくいっといてよ」
それが最後のことばだった。
それきりである。