「プレミアA」でのネットカフェ難民報道についての記事で、一般的と思われる意見を述べているブログとして「暇過ぎNEET(仮)の大冒険 in 数学島」をご紹介したが、どうも管理人さんはたいそうご立腹のようで(苦笑)、「下らん記事に反論する気も起きない」とのこと。でも、「暇過ぎNEET(仮)の大冒険 in 数学島: 気が付いたら、」で反論があったので引用しちゃおう。悪気はないので、あくまでも「よくあるご意見」の代表として、ね。
この記事の人(編注:健次郎のこと)の場合には行動が誤っている。どんな理由で家族が崩壊したのかは知らないが崩壊したものを取り戻すという(結果としては無意味な)行動を取ってsafety netに頼る努力を怠るというriskyな選択をしておきながらその行為に関しては全く反省が無い。ここに根本的な誤りがある。
自身の行為の評価は棚上げにして陥ってしまった状況を正当化しているようにしか見えない。そんな暇があるならもっとするべき事があるだろう。状況判断が間違っているとしか思えない。全力で何かをしたから評価されるとでも思っているのだろうか?本人は全力を尽くしたつもりなのかも知れないがそれを判断するのは他人であるということを理解しなければならぬ。
・・・どうでも良いけど、ネットカフェ難民かそれに準ずるものに陥るときにするべき事があったはず、より正確にはその備えをして置くべき、というのが私の主な意見なのである。
この人物は以下の点で完全にまちがっている。
1.机上の空論と現場の実践とでは大きく異なる現実を認識していない
頭は切れても現場経験が少ない人に多いが、理論や知識と現場はまったくちがっている現実を知らない。学生が会社に入ってもすぐには使いものにならないのとおなじように、あるいは最前線を知らないマヌケな司令官が立てたトンマな作戦のせいで軍隊が全滅してしまうように、またバカなフロントが現場の声を聞かずチームをダメにしてしまうように、現場を知らずに頭でっかちの理論や知識を振りまわしているだけである。彼らがカボチャ頭で考える、あるいはダンボの耳で聞いたことの10のうち、現実にはただひとつですら実現不能であろう。彼らは空想の世界に遊び、ぼくらは現実の世界に生きている。
危機に際して自分がセイフティネットに逃げ込むかどうか、まずはよく考えよ。みずから立ち向かわねばならない状況が眼の前にありながら立ち向かわず、なぜ安易に他人を頼ろうとするのか? それこそは「逃げ」であり「甘え」である。そういう逃げ腰で甘ったれの人間を他人は許さないだろう。セイフティネットで待ち受けるのは、猛烈な反発と拒絶である。
「ネットカフェ難民かそれに準ずるものに陥るときにするべき事があったはず、より正確にはその備えをして置くべき」
というのであれば、それはどのような方法で、現実に実行可能であるかどうか、検証してからものをいうべきである。そのとき初めて、
「自分だけの都合で、ことは運ばない」
ことを思い知る。おのが空理空論にあぐらをかいている者は、実際の戦場では命さえ落とすだろう。
2.評価は他人が下すものではなく、自分自身が下すものである
本人の努力を評価・判断するのは他人ではなく、実は自分自身である。この人物のように「他者中心の評価」を絶対視することで、人は自分の中心を失って不安定になり、他人に振りまわされる自己評価の低い人間になってゆく。おのれの価値判断を他人任せにしてしまうのである。全力を尽くしてもビリになったランナーを、1位の選手と同様に称える精神こそが大切なのであって、この人物のように「結果がすべて」という考え方は、結局のところ「勝つためにはなんでもする」というインモラルな社会を助長しているに過ぎない。
彼らのような人は単なる頭でっかちであり、実際の現場では役立たずである。口ばかり達者で現場ではなにもできない。わが子が河に落ちたのを助けようとして飛び込み、結果として親子ともども亡くなってしまうようなケースでさえも、
「助けられないのに飛び込むという無意味な行動を取っておきながら反省がない」
などとのたまい、死者にすら反省を求める。むろん、その死を悼むことなどありはしない。彼らが現場でするのは、人が死んでゆくのを眼にしながらなにもせず、ただ黙って見ていることだけである。それがわが子であっても、だ。
ホームレスやワーキングプア、ネットカフェ難民などを非難している人の多くは、実はこの人物のような人たちである。現実を知らず、危機に際してきわめて甘い認識を持っている。
現実を頭だけで理解すると薄っぺらになる。程度にもよるけれど、一般に感情的に理解することのほうがはるかにむずかしい。なにかの問題に対するアドバイザーは数多いが、感情的な理解者は少ないものだ。「こうすりゃいいじゃん」とは簡単にいえるけれど、「その気持ち、わかるよ」といえる人はなかなかいない。
現代では、ものごとを薄っぺらな考えで量る人が多くなったのかも知れない。あるいは若さゆえの経験不足からくるのか、人間理解を頭で考えた理屈で済まそうとする人が増えたのかも知れない。人は頭ではなく、心で理解すべきものなのだけれど。
まぁ今は他人ごとではあるし、こういう種類の人たちが他者理解に及ぶためには、結局のところ自身が経験するよりほかはない。経験によって、危機管理が絵に描いた餅であったことを知り、想像と現実のギャップを身に染みて感じてみることが必要だ。場合によっては、ぼくが経験したように、逃げ場のない袋小路で、抵抗できぬまま気を失うほどぶん殴られてみるとよいだろう。自分のことを、
「殴られている暇があるならもっとするべき事があるだろう」
などとは思えぬはずである。
頼れるはずだった人には見事に裏切られ、セイフティネットとやらにも簡単に門前払いを食わされるだろう。人の眼とことばは冷たく、あちこちで越えられぬ高い壁に阻まれるだろう。「こんなはずじゃなかった」と怒りや嘆きの感情にとらわれて、やがて無力感に襲われるだろう。どうしたらよいのかわからなくなってしまい、途方に暮れることだろう。やがて、あなたの心は死ぬだろう。
それを見て、しかし人はいうだろう。
「自己正当化だ」
「状況判断がまちがっている」
「ほかにやるべきことがあるだろうに」
そのときあなたは、どう答えるのだろうか? おのれに問うがよい。