ニートが社会問題として注目されはじめたとき、彼らを訓練して社会参加させてゆく議論がもっぱらだった。「若者自立塾」などというのはその集大成で、ニートや引きこもりの子たちを社会参加させてゆく試みが、厚生労働省主導で現在もおこなわれている。
ところがその一方で、たとえばフリーターなどの議論で最近耳にすることに、「フリーターのままでも生きてゆける社会の実現」といった方向性がある。『フリーターにとって「自由」とは何か』(杉田俊介/人文書院)の著者も同様のことを語っているが、個人の現状を肯定してゆこうという方向であるのだろう。
ホームレスにもやはりおなじようなことがあって、「ホームレス文化」の小川てつヲさんなどは、悲惨と思われがちなホームレス生活の中に文化的な豊かさを見出すという肯定的な視線で、ホームレス問題を語りつづけている。
格差社会ということばが巷を跋扈(ばっこ)しはじめて久しいが、ネオコンだかネオリベだかの新自由主義者たちの口癖である「自己責任」と「自助努力」によって現在の社会に参加してゆくことを目指す方向と、いやむしろ問題とされている個人の現状を肯定してゆこうとする方向と、人々の考え方もまた二極化し、意識上にもある種の格差が生まれ、進行しつつあるような気がする。
この二極化が進むとどのような社会がおとずれるのか。一方は幸せを感じる余裕もなくがむしゃらに働いて、あわよくば左うちわの生活をもくろむのか。あるいはもう一方は、貧乏であっても精神的に豊かで幸せな生活を送るのか。
数量的に拮抗する、あるいは無視できぬほどに増えれば、社会そのものが大きくシフトする可能性はあるが、これもまたあまり現実的な話ではないかも知れない。むしろ、上へも下へも身動きが取れない中間層が肥大化しつつあるのが現実か。