ほんとうはなにもできない自分

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俺はよく傷ついた傷ついたっていって騒ぐんだけども、ほんとうはそれとおなじぐらい、あるいはそれ以上に人を傷つけているんだ。意図的に傷つけることもあるし、気づかないうちに不用意に傷つけてしまうこともある。

当代の幸四郎が子供のころ、父親の白鸚(はくおう)に稽古をつけてもらっていたときのこと、なにかの所作でひどく怒られたという話がある。幸四郎はそれが非常に大事なことなのだろうと思い、その後はそのことに特に気を付けた。ところが後年、それを父親に話すと白鸚はきょとんとして、そんなことがあったか、といい、機嫌でも悪かったんだろう、といわれ、幸四郎は愕然としたというんだ。

いった本人が意図しない意味を相手が受け取ることがあって、だからコミュニケーションはむずかしいのだけれども、逆にいえば相手の態度をどう受け止めるかも自分自身にかかっているわけで、そこいらで傷ついたり傷つかなかったりもできるんだな。

最近「粗忽(そこつ)」という懐かしいことばを聞いたのだけれど、たとえばひどく傷つけられた相手に対して「なんて無神経でいい加減なヤツなんだッ!」と怒って罵るよりは、「あぁ、この人って粗忽モノなんだなぁ」と笑顔でやり過ごすほうが、たぶんずっと素敵な生き方なんだ。

俺の目指す人間性のひとつに「清濁併せ呑む」というのがあって、こりゃまた途方もなく高い山なんだけれども、同時に「清濁併せ持つ」って目標もあって、「清」はともかく「濁」のほうはいくらでも持っている。まぁ立派なことをやってみたかと思えば、その一方でグダグダになってみたり……、人間の幅というか、人間性の上から下までを持っていたいという欲深な性格なんだけど、そういう生き方ができればやっぱり素敵だと思う。

俺は自分を「ほんとうはなにもできない自分」って思ってて、なにかしようとしてズッコケては無価値感・無力感にとらわれてしまい、「あぁ、自分には価値がないんだ」ってなっちゃうんだ。だからこそ、虚勢を張って背伸びして自分をデカく見せ「どんなもんよッ!」とやって、傷つけてくる相手には防衛的に攻撃的になって「痛てぇなコノヤロウッ!」とやり返すわけだけど、こいつを「あ、そこ痛い。勘弁ね」と穏やかにやり過ごせる心もちになれれば、やっぱりこれも素敵な生き方だなぁと思う。

そういう素敵な生き方をしてみたいんだよね。

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