Side A
調べたいことがあってネットで検索するとこのブログがヒットした。むかしの記事のようだったが、ぼくは書いた記憶がないので誰かのコメントにちがいない。クリックすると、案の定、とある記事のコメント欄へと飛んだ。
専門家なのだろう。感情的になりがちな話題をやや難解ながら筋道のとおった論理的な解説で、実に冷静にさばいている。ははぁん、なるほど、そういうわけなのかぁと、まぁぼくの疑問は氷解した。ぼくはあまり物覚えがよくないから、コメントをいただいた人をみな覚えているわけではない。それどころか、ごく一部を除いてほとんど忘れてしまう。
しかし、こんなことを書いてくれている人がいたのだなぁと、すっかり忘れている己を恥じながら、ひょいと署名を見てギョッとした。
武州無宿・健次郎。
コメントの元になった記事を含め、慌ててもう一度読み直す。たしかに、このようなことをいいたいと思った記憶はある。そして、こんなような記事、こんなようなコメントをした記憶もある。だが、こんな記事を書いた覚えもないし、こんなコメントをした覚えもない。
ここでの武州無宿・健次郎氏は、今この文章を書いているぼくとは、似ても似つかぬような人物であった。この取っ付きにくさは置いておくとしても、その論理性、分析力、冷静さ、なかなかどうして、まったくたいしたものと感服する。
あぁん? だがしかし、これはぼくが書いたものなのだ。当時の武州無宿・健次郎氏が書き、今のぼくにはとうてい書けそうもないこと。いくつか過去の記事を読んでみると、それをいっそうはっきりと実感した。
以前は今よりもはるかに追い詰められた状態にあったはずだが、してみるとそのギリギリの状態が、なにかの切れ味を生み出していたのか。そうとうに考え抜かれて書かれていて、ぼくのようなボンクラには、ちょっと付け入る隙がない。なにか鬼気迫るものがあるようだ。
この武州無宿・健次郎氏。いったい何者であったのだろうか? いや、それはただのホームレスにはちがいないが、ぼくにはこんな記事、とても書けない。「むかしは俺もよいことを書いていたな」というノスタルジックな感情がわいてこないのだ。過去と現在が不連続になっている。
妙ないいぐさだが、惜しい人物を亡くしたと思う。
Side B
ホームレスとして、ぼくは20年、早過ぎた。
おそらく今から20年後のホームレスは、今とはまったくちがった種類の人たちが中心にいるはずだ。それは今現在20代から30代の人たちであり、寄せ場だの日雇いだのとはぜんぜん無関係に路上に堕ちる人たちだろう。ドヤと路上とを行きつ戻りつする人たちではないだろう。一旗あげるために田舎から都会に出てきた人たちでもなく、低い教育しか受けられなかった人たちでもないだろう。
彼らは都会の闇にまぎれ、路上の影から路上の影へと、人知れず移ろいながらうずくまる。現在おこなわれている支援の手立てはまったく通用しないが、そのころには世界もあなた方に対する見識を改めていて、必要な手立てが考えられているかも知れない。20年後の路上はあなた方のものである。
ぼくは早く来過ぎたホームレスだった。