小説の書き方には2種類ある。「わたし」が主人公の1人称小説と「誰か」が主人公の3人称小説だ。1人称のほうが書きやすく思えるので、たいていの人は「わたし」を主人公に書きはじめる。が、実際には1人称のほうがむずかしい。したがって、初心者の書いた1人称小説は読むに耐えぬものとなる。
理由はさまざまだが、いちばん大きな問題は「心象風景の描写」だろう。1人称は「わたし」が主人公だから感情を吐露しやすい。ついだらだら、
わたしは朝美を見てごくりとつばを飲み込んだ。なんということだろう、どこか弥生の面影を見たのだ。とたんに苦い思い出がよみがえり、わたしは怒りと哀しみの狭間に突き落とされた。それは思い出すのもはばかられるような若く痛々しい思い出であったのだ。
そう、あの日、それは天高く空気の透きとおった秋の草原であった。わたしと弥生は暖かな陽だまりでうららかなひとときを過ごしていた。横に寝そべっている弥生の肢体は眼を見張るほどに白く細くしなやかで美しかった。それを見てわたしは突然に突き上げてくる若き欲望を抑え切れなくなったのだ。そして今もって語ることのできぬ過ちを犯してしまったのである……
息苦しい。空気が薄く感じる。もっと酸素が欲しい。息が上がる。これは幻影であろう、幻影。弥生の幻影が朝美となって今またわたしの眼前に渾然と姿を現したのだ。これまでの気の遠くなるような時間では足りずまだわたしを苦しめるというのか。おお、なんたることだ!
こうなればすることはひとつしかなかった。まさか今になってこのようなことになるとは思いもよらない。わたしは知らぬ間に祈っていた。神よ、神! どうかわれを救いたまえ、われを助けたまえ! おおっ、この罪深き者を許したまえ!
神は留守だった。わたしは弾けるような胸の高鳴りを押さえられず朝美に襲いかかった……
例としてはムチャクチャだけど(笑)、まぁこんなように心のうちを披露しつづけて読者にべたべたとまとわりつく。そのうち読者は嫌になってしまって本を閉じ、ゴミ箱へ放り込むという寸法である。
これはエッセイなどでもおなじ、あるいはむしろより際立つことも多いが、作者がああでもないこうでもない、延々とその心情を語りつづけたりすると、読者は寄りかかられている気がして本を投げ出す。いってみりゃ「ウザい」のだ。
3人称ではこの手が使いにくい。
健次郎はのどを鳴らして舌なめずりをするなり朝美に襲いかかった。激痛。天に突き抜ける。悲鳴。自分のだ。下を見る。朝美のすらりと白く伸びた足が股間にめり込んでいる。
「なにすんのよっ!」
視界、砕け散る。平手打ち。あごがよじれる。壁際まで吹っ飛んだ。頭を激しく打ちつけた。ぐらり。気が遠のいてゆく。健次郎はへたり込んだ。
まァ例が下手でアレですが(苦笑)、描写が客観的になる。ちなみに女性の方は「朝美」をご自分の名前に置き換えてお読みください(笑)。
……ともあれ、わたしはこのブログでホームレスの当事者として1人称的な文章など書いているけれど、改めて読み返してみると、これがけっこう「ウザい」。感情に振りまわされ過ぎている。まぁその反省としてこの記事を書いてみただけ……
ただ、他のサイトで非ホームレスの人たちが書いたホームレスのレポートなどを読んでいると、今度は非常に3人称的、いってみれば単なる第3者の状況報告だけで、べつだんおもしろくもなんともない。理由は簡単だ。作者の眼をとおしたホームレスが語られていないからだ。
「文は人なり」という。上手下手という意味じゃない。作者がなにを見、どう感じ、なにを思い、なにを考えたのか。文章にはそれが出る。他人を語っても、書いている自分が出る。卑しい自分、みっともない自分、情けない自分、浅はかな自分、愚かな自分、ずるい自分、すべて出る。誰を描こうとも結局は自分を書くことになる。「文は人なり」とはそういう意味なのである。
当然に、他者と自分に対する深い洞察を持たない文は薄っぺらになる。他人を見る眼をとおしてしっかりと自分を見つめ、そして自分を語るところまでゆかなければ、ものごとの上っ面を撫ぜただけに終わってしまう。非ホームレスの人が書いたホームレスのルポは、そのほとんどが自己を語っていない。浅薄なルポに終始しておもしろくないのはそのためだ。
実は読者のほとんどはホームレス問題などに興味はない。興味があるのはあなたのことだ。あなたがなにを見、どう感じ、なにを思い、なにを考えたのか。つまりあなたはどういう人なのか。読者の興味はその一点に尽きるのである。
ホームレスを見るあなた自身を語りなさい。「ホームレス問題を語る」というのはそういうことだ。
さて、あなたはどんな人ですか?