このカテゴリーで扱うニートや引きこもりの話題についての、わたしのポジション。
すでに『ニートと引きこもり(5)』でも触れているとおり、ニートや引きこもりの原因は産業構造・雇用・家庭・教育・住宅環境・地域社会など、さまざまな分野で起きている大きな構造的変化にある。それらが複雑に絡み合っているため、すべてがだれかしらに当てはまり、そしてすべてに当てはまる人もいないと考える。したがって、事情は当事者個々人によってすべてちがい、特定の問題をすべての人たちの原因として挙げることはできない。
全体を通しての原因を特定し得ないのならば、いきおい当事者個々人の事情によって対処することになるが、共通項として、自己評価の低さに伴う社会参加へのモチベーション低下を仮定した。なので、自己評価を上げる方策として、まずはカウンセリング的な無条件の受容(無条件の肯定的尊重・配慮・関心などともいう)を提示してみた。
これまで述べてきたとおり、高く安定した自己評価は主に養育者による無条件の受容によって作られるが、その効果が未来永劫つづくわけでもない。どれほどタフな男でも、ブン殴られつづければいつかは倒れるのとおなじで、自己評価を下げる出来事がつづけば次第に下がる。なにが原因で自己評価が低くなったかは個々人で事情が異なるだろう。
そうした中で、わたしの取るポジションは次のように例えられる。
街を歩いているとき前にいた人が、脇道から出てきた男にいきなり殴られ路上に倒れた。男はその人のかばんを奪って駆け足で逃げてゆく。被害者を助けるか犯人を追うか?
わたしは被害者を介抱するポジションを取る。これは物ごとの結果としての当事者に関わる、対症療法的な行為である。反対に犯人を追うのは、物ごとの原因を追究してそれを正そうとする、病因療法的な行為だ。どちらも必要なことだが、わたしは前者のポジションを自分の役割としている。
したがって、ニートや引きこもりの原因は社会にあるのでそれを正すべき、あるいは、そのまちがった社会に適応している人が変なのでニートや引きこもりはまったく問題がない、といった主張をすることは、わたしの役割ではない。
上記のような主張は不登校などに関して以前からいわれている、
「今の学校はおかしいので不登校になるのがあたりまえだから、行かなくてよい。行く子が過剰適応なのだ」
といった論調とおなじものだ。その是非はわたしにはわからないし、そのために学校、あるいは社会を改革しようとの高邁(こうまい)な精神を持ち合わせているわけでもない。その点でわたしは悪党である。正義というものを信じていないので、わたしに正義はおこなえない。詳しい理由の説明はしないが、わたしはハードボイルド小説の読者なので……といったら、わかる人にはいっぺんにご理解いただけると思う。
さて、これまでこのカテゴリーではいろいろなことを書いてきた。あまりにいろいろなことを書いてきたので、なにを書いてきたのか忘れてしまったほどである(笑)。そこで今、またひとつ書こうと思うのだが……
そもそも、なぜニートや引きこもりが問題なのか、まったくよくわからなくなってきた。働いていないだとか経済上の問題だとか義務だからだとか社会不安だとかホームレスになるだとか、いや社会に問題があるだとか家庭が悪いだとか教育がいかんだとか企業が悪いだとか、いろいろいわれる。いろいろな人によってよかったり悪かったりするのだけれど、ここにはニートや引きこもりに対する価値判断がある。
だが、近ごろこのようなことは無意味に感じてきた。現に眼の前に社会へ出てゆけない人たちがいるのみであって、それは単にそうした現実があるだけだと思うようになったからだ。ここに善悪の判断を持ち込んで当事者がどうかなるものではない。よいか悪いか、そんなことはもう放っておけ。そう思うようになった。
だから、わたしは一切の価値判断を棚に上げ、これからはこのようにいうことにした。
やりたいのならばやればよいし、できないのならやらないでよい。ほかにどうしようもないことによいも悪いもないのだから、そんなに苦しまないで。
ということで、これが現時点におけるわたしのポジション、そしてそこからいえること。