ニートと引きこもり(6)

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 かつての伝統的な社会では、自分が何者であるかなど、考えるまでもなく外側から規定されていた。それは身分であり家柄であり性別だった。だれそれは商家の嫡子であり家業を継いで嫁さんもらってなどということは、親も周辺の人間も、また本人さえも、まったく疑うことなくそう思い、またそのように見ていただろう。

 時代くだって現代。産業社会が成熟し、ライフスタイルの多様化、流動化、個人化が進み、伝統的な社会規範が弱まった時代には、外部からの規定によらず、アイデンティティの確立という内部的な要因によって、みずからを規定することになった。

 そして、今。

  • 会社や学校、家庭、趣味の活動など個人の所属が多元化し、またそれぞれが他から切り離された個別的な活動であるため、人はその場その場でちがった顔を見せるようになった
  • メディアの発達により関係が複雑化し、対面、電話、メール、インターネットなど、コミュニケーションの種類によってもちがった顔を持つようになった
  • 身近によくわかりあえる親しい人、周辺にそれほどでもない人という、一貫した人格による従来の交流パターンが崩れ、会ったこともない人とも気の合う部分だけでは非常に親しく付き合うという、部分に分裂・断片化した自己による交流がおこなわれるようになった→状況志向(富田英典・藤村正之)
  • その場その場で自分がちがった顔を持つため、このように分裂した自分とはなにか、ほんとうの自分とはなにかという疑問を抱え込まざるを得なくなった
  • 高度な消費社会は、かつての社会的な規定やアイデンティティの確立によることなく、記号化された消費財、すなわちブランドやイメージなど、きわめて流動的なものによって自己を規定することにつながった
  • 同時に、このような社会は、自己の内部に基準を持つ内部志向ではない、自分の外側にある基準で自己を規定する外部志向の人間の存在を浮かび上がらせた(デビッド・リースマン)
  • 流行というきわめて流動的で短いサイクルによって変化するものに合わせ、自己イメージも変化してしまうがゆえに、いやおうなくほんとうの自分への疑問が生じてきた

 ……要するに、わたしたちは内部的には分裂し、分裂した部分部分で外部の他者と付き合い、そこではいとも簡単に他者と融合してしまうような生活を送っており、そうした分裂した自己を振り返って「ほんとうの自分とはなにか?」という疑問にとらわれる状況下を生きている、ということのようである。そして、そこには社会構造の変化、とりわけ消費社会やメディアの発達がおおきく関わっているということだ。

 前世紀末からいわれるようになったこころの時代や、その後につづく自分探しなどといったキーワードも、さまざまな社会構造の変化の結果として現れてきた必然なのかも知れない。少なくとも、わたしたちはそうした自己の存在に対する危機意識を誘発する時代に生きていて、ニートや引きこもりは、それを具体的に体現している人たちだとはいえないだろうか。そしてまた、そうでない人々も、おなじ社会構造を生きている以上、そうなる可能性を常にはらんでいるといってよいのではないか。

 これはなにも若年層に限ったことではない。企業戦士など、仕事や会社に自己のアイデンティティを過度に依存しているような人は、それを失ったとたん、自分が何者なのかまったくわからなくなる危険をはらんでもいるのだ。それはそれまでの自分らしさをなくしたという喪失感につながって、場合によっては自死に至る可能性さえ否定できないだろう。

 そう考えれば、わたしたちはみな自己喪失の時代を生きているといってよくはないだろうか。

★今日のポイント

  • 消費の形やメディアの発達によって変化した社会構造が、「ほんとうの自分とはなにか」と問わざるを得ない環境を生み出している
  • それら自己の存在に対する危機感を体現しているのがニートや引きこもり
  • おなじ社会構造を生きている以上、だれでもニートや引きこもりになる可能性がある
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