あしたを今日より生きやすくするために ~小田原ジャンパー事件の本質~

スポンサーリンク

 ぼくは生活保護の利用者で精神疾患を患っていますが、就労は可能であることから、現在は職業訓練のため、介護職の研修にかよっています。

 その研修の内容に、ぼくはたいへんショックを受けました。講義のしょっぱなから「人間の尊厳と自立」について、徹底的に叩き込まれるんです。利用者個人の尊厳を守れと。自己決定権を尊守しろと。「他からの支配を受けずに、自分の考えで生き方や生活のあり方を決定すること」を支援するのが自立支援なんだと、講義が変わり講師が変わりテキストが変わっても、しつこいぐらい教え込まれます。まず利用者の人権を守れ、と。

 これには驚きました。介護職の教育って、こんなに福祉の基本理念を大切にしているんですね。ビックリです。

 ぼくはこれまで自分で調べ、あるいは考えた理念しか知らず、内容に不安を抱きつつ口にしてきたのですけれども、少なくとも介護でなされる教育内容とは合致していることがわかり、独りよがりではなかったことにホッと胸をなでおろしました。そしてなにより、研修できちんと福祉教育がなされていることがすばらしく思えました。

 そして、おなじ福祉の基本理念を共有しているはずのケースワーカーとて、むろん叩き込まれているはずだとも思ったのです。

 けれど、ではぼくらが接する福祉事務所のケースワーカーが、どれほど福祉の基本理念を尊守しているかを考えると、どうも首をかしげてしまうんですね。圧倒的な力関係の中で、利用者の尊厳など平気で踏み潰してゆく事例が、あとを絶ちません。イロハのイが、まるきり抜け落ちている。ぼくが教わっている理念とはまったく正反対のことが、日常的に平然とおこなわれています。

 そこにまた、今回の小田原市生活保護利用者威嚇ジャンパー事件(以下、小田原ジャンパー事件)が起こりました。福祉事務所の職員が「保護なめんな」などと書かれたお揃いのジャンパーを着て、利用者を威嚇していた事件です。

 この事件を取材した「マガジン9」の「雨宮処凛がゆく! 小田原市役所に申し入れ~「保護なめんな」ジャンパーの背景にあるもの~の巻」には、生活保護の利用者を陰で呼び捨てにしていないか市役所に問うたところ、
「いや、あんまりそんなに大きな声でやり取りしないので。他の人には聞こえないので」
 との返答があったと書かれています。聞こえないから知らない、わからない。あるいは、聞こえなければよいという認識だとも受け取れます。

 ぼくは介護の研修で、
「本人がいない場でこそ敬意を払い、敬語で呼びなさい」
 と、これまた何度も教わってきています。利用者の尊厳を守るべき職務なら、しごく当然のことなのです。この凄まじいまでの意識のちがいはどうしたことでしょう。彼らはどこで福祉の道を踏みはずしたのでしょうか。

 今回の事件もそうですけれど、ケースワーカーの多くは、まともな福祉教育を受ける機会がなかったのかも知れません。むろん、そうした教育を受け、あるいはご自身の研鑽によって福祉の理念を身につけ、現場で日々活躍している方々もいらっしゃいます。しかし、こうした方々は、やはりごく少数に思えるのです。

 多くのケースワーカーはもともと専門の福祉職ではなく、自治体内の一般事務職が異動してきたものです。福祉職で採用されたのでない限り、福祉の教育を受けてきた人ではありません。ケースワーカーの教育は自治体ごとの研修や職場内研修でなされており、ざっと調べた限りでは、新人研修、現任研修、査察指導員研修など、しくみも内容も自治体ごとにちがっています。また、講師も、たいがいは身内の自治体職員で、外部の専門家を招くケースは少数です。

 研修の多くは、たった1~3日の短期間。生活保護制度の知識や運用、ケースワークの知識と技術、事例研究、福祉行政の動向、就労支援の方法などを短時間に詰め込んで、内容もこれまた自治体によってバラバラです。福祉の理念や権利擁護(アドボカシー)といった根本的な講義は、ごくわずかにとどまっています。

 また、就労支援員など、ケースワーカーとは別の職員についても研修はありますが、福祉の理念を教える講義が見当たらない自治体もあります。ハローワークの求人票を探すとわかるのですけれども、就労支援員の多くは嘱託の非常勤職員です。ぼくの知る範囲では、元ハローワーク職員などが多いと聞いていますが、異業種からの参入者もいます。いずれにせよ、福祉の教育を受けた者はごく少数に過ぎません。彼らの多くは傾聴すらできず、自分の考えをとうとうと述べるだけの相談技術しか持ち合わせていません。

 そうなんですね。恐るべきことに、職員の多くは福祉についてほとんどなにも教わらず、ほとんどなにも教わっていない先輩たちが働く現場に放り込まれ、ほとんど全員がなにも知らないまま、単なる自分たちの思い込みで仕事をしているのです。

 そうかと思えば、福祉教育を受けた、そのごく少数である職員。福祉系大学を出て数十年、福祉の大ベテランであろうはずの支援員に、
「自立ってなんですか?」
 と問えば、
「生活保護を抜けることです!」
 と即答したというおかしな話もあります。
「え、そのとおりでしょ?」
 と思う人もいるでしょう。しかし、これはまちがいです。なにがまちがっているのでしょうか?

 かつて自立とは、他者の助けを借りずに生きることを指していました。借りる手が多ければ多いほど、その人は「自立していない」と見なされて、いわば半人前の扱いを受けてきました。立場を問わず、未だこの自立観にしがみつき、あるいは振りまわされている人たちも数多くいます。

 しかし、冒頭でも触れましたが、そうした自立観は、すでに過去のものとなっています。現代では「他からの支配を受けずに、自分の考えで生き方や生活のあり方を決定すること」を自立と定義するようになりました。福祉教育でも、そのように教えています。

 したがって、必要な他者の手を借りて自己選択し自己決定してゆくことが、イコール自立となったのです。その人がその人らしく生きられるように、自分で選んで自分で決めてもらうための支援、それを「自立支援」と呼んでいます。あくまでも本人本位。本人の主体性、個人の尊厳が最大限に尊重されます。かつての「援助者の指導にしたがわせる」援助者本位の自立支援とは、まったく正反対になりました。

 たとえば、生活保護の生活扶助(生活費)によって金銭給付を受けた場合、そのお金をどう使うか、なにに使うか、それらはみな利用者の主体的な自己決定にゆだねられます。つまり、利用者は、その生活においては現在、すでに自立した状態にあるのです。時折、現物給付にしたらどうかという議論を見かけますが、自己選択と自己決定の機会が損なわれ、自立が大幅に阻害されるため、この議論は根本的に意味をなしません。

 しかし、前述のような支援員は、こうした現代福祉の理念をまるきり理解しておらず、未だに過去の自立観に取り憑かれています。すでに自立した状態の人に向かって、
「あなたは自立していない!」
 という自論を臆面もなく吐き捨てる、その傲慢さがおわかりいただけるでしょうか。このように、福祉教育を受けた者が、必ずしもその理念を理解・尊守しているわけではありません。

 過去にしがみつくこうした職員たちに対しては、徹底した教育が必要でしょうし、定期的・継続的な研修を義務づけ、またその際には筆記試験や小論文、実技試験などを実施して、資質を欠く者を容赦なくふるい落とす必要があります。そうでなければ、福祉の根幹をなす基本理念と権利擁護の意識は、いつまで経っても福祉事務所に根づかないでしょう。

 ゆくゆく、ケースワーカーには一般事務職ではなく、専門の福祉職だけが就くようになるとも云われます。そうした議論も盛んにおこなわれていますが、しかし実現までには、まだまだ時間が必要でしょう。

 余談ながら、社会福祉士や精神保健福祉士など相談援助職の試験は、現在、筆記のみでおこなわれています。けれど、こうした福祉職にも、いずれ実技試験が必須になるでしょう。自立支援に沿った相談ができるか、個人の尊厳を守った相談ができるかなど、きちんとチェックする必要があるからです。

 また、以前から、ケースワーカーの増員が必要だと云われていますが、余裕のできた分だけ、これまで以上に不当な運用がなされる危険性も指摘されています。人数だけ増えても質が高まらなければ、「悪い職員が増えただけ」に終わるかも知れません。増員は必須ですが、それには質が伴わなければならないのです。

 今回の小田原ジャンパー事件は極端なかたちではあるものの、全国津々浦々、福祉事務所の職員間に蔓延している意識が噴出したものであることは、これまで大小のトラブルを見聞きし、あるいは体験している人にとっては、自明のことではないでしょうか。氷山の一角に過ぎません。

 その小田原市には、激励の声が続々届いているとの話も聞きました。不正受給に対峙する姿勢を賞賛したものだろうと思います。不正受給の議論では、全体の数パーセントに過ぎないとか、大半は単なるまちがいであるとか、いや、誰がどうなろうとなにがなんでも不正は撲滅せよとか、そのあたりで紛糾することが常になりました。

 けれど、不正受給を根拠とした生活保護バッシングが起こるたび、ぼくが思い出すのは、太平洋戦争当時、米国政府によって敵性市民とされ強制収容所に収容された、日系アメリカ人や日本人移民たちのことです。彼ら自身にはなにも罪がないのにもかかわらず、スパイ活動や破壊工作の危険があるとして監視対象とされ、最終的には強制収容所に収容されてしまいます。戦後も2級市民扱いがつづき、強制収容がまちがいだったことを米国政府が認めたのは、1978年になってからのことでした。

 こうした問題に共通するのは「差別」です。通常なら、トラブルを起こした者と関係者だけが問題にされるのに対し、差別ではその者が属しているなにかの属性全体を「潜在的容疑者」として扱うことが正当化されてゆきます。戦時中のアメリカでは、それが日系人という「人種」に対しておこなわれ、生活保護バッシングでは「利用者」に対しておこなわれているだけです。不正受給は口実に過ぎません。

 生活保護問題の根本は、不正受給でも社会保障でも財源でもなく、差別です。表面的な問題を取り除いてゆけば、最終的にはなにが残るのか。その底にはなにがあるのか。ずっとずっと掘りつづけると、最後には差別が浮かび上がってきます。またか、です。また差別の問題なのか、です。生活保護を非難する者たちの声にしたがって不正受給をなくそうが、利用者数を減らそうが、保護費を削減しようが、まず差別をなくさなければ、生活保護の利用者は永遠にバッシングを受けつづけるでしょう。

 今回の事件を一過性のものとして終わらせてしまえば、ぼくらが常日ごろから見聞きし、体験している不快なトラブルもまた、これまでどおりつづいてゆくことでしょう。そして、いずれまた、ニュースで氷山の一角を眼にすることになるでしょう。

 あしたを今日より少しでも生きやすくするために、自分になにができるのか。いま一度、自分に問いなおさざるを得ない事件になりました。いま、どうすべきか、なにができるのか。

 あしたを今日より生きやすくするために、ぼくたちにはいま、なにができるでしょうか。
(了)

※この原稿は、2017年2月4日、《STOP! 生活保護基準引き下げ》アクション公式サイトに発表されたものです。

スポンサーリンク