ホームレス列伝(2)

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 みんながささっと夕食を済ませてさっぱりとシャワーを浴び、一服つけてさぁボチボチ横になろうかという時分だった。ぼくはベッドにも向かわずに、今や唯一の住まいとなったホームレス施設のベンチに未だうずくまっていた。

 砂利を踏む湿った音に顔を上げた。痩せた青い顔が闇に浮かぶ。Aちゃんだ。
「隣、いい?」
「かまわないよ」
 Aちゃんがベンチに座ることは滅多にない。ぼくはうっすらと奇妙な感じにとらわれた。
「これね、いつか健次郎さんには話しておこうと思ってたんだけどさ……」
 歪んだベンチに身を投げ出しながら、Aちゃんは口を開いた。

 施設住人の打ち明け話は、いつもこんなふうだ。ぼくはこの薄汚れて朽ちかけたベンチにやたら長々と居据わっているので、人と話す機会が多い。どうかすると、こうして悩みごとを聴くことになる。とはいえ、ぼくはほとんど話さない。うなずいて相槌を打つ、ただそれだけのことである。

「俺が仕事を探してるの知ってるでしょ」
「うんうん」
「どうしていいのかわからない、んだよ……」
「うんうん」
「今まで給料って、もらったことがないからさ……」
「うんうん。……え?」
 タダ働き、という意味ではない。

 ――あぁ、ヤクザってそういうものなのか。
 彼はスジ彫りのチンピラとは一線を画す。人前では決して脱ぐことのない長袖シャツの上からでも、その色とりどりが透けて見えるほど艶やかな我慢を背負って、両の小指すら持たぬ、本格の侠客だった。

「会社に勤めたことがないんだよね」
「なるほどなるほど」
「どういうふうにすればいいのか、わかんなくてさ……」
 いつものような小気味のよい切れ味はなく、その声は澱んで沈む。

 Aちゃんの過去は映画か小説じみていた。といって、観客ウケを狙ったド派手なアクションシーンでもなく、読者を飽きさせないために仕組まれたエピソードでもない。エンドロールが流れたあとで、あるいは最後のページを閉じたのちに、
「あぁ、すごかった」
 と終わりを告げる物語ではない。そのあとも現実はつづく。生きている限り。

「ほとほと嫌気が差しちゃってさ、ふつうの世界で生きたいんだよね」
 しかし、中年に足が掛かって、履歴書に書ける経歴がまったくなかった。職歴が真っ白だ。そんな人間を、いったいどこの誰が雇うだろう? 社会のしくみが立ちはだかる。

 施設の担当者は忙しく飛びまわっていた。経験豊富な主任相談員も巻き込んで、困難なケースによく立ち向かっていたと思う。その甲斐あって、Aちゃんでよいという会社も現れ、面接にもこぎつけた。だが、身体的な――つまり小指だけれど――問題が、どうかすると面接官の口から飛び出してくると云う。それでご破算とされてしまうのだ。

 Aちゃんは持病を抱えていたから、ひとまず生活保護をという話になったのだろう。部屋を借り施設を出て、そこでまた考えようということだ。ところが、今度はアパートが借りられない。複雑な事情が絡みあい、住民票すら動かせないらしかった。保証人の問題もあって、不動産屋は首を縦に振らない。

 施設の担当者が、
「参りましたよ」
 顔を歪めたり、
「こんなのおかしいですよね!」
 憤る。ぼくは、他の自治体で支援活動をしているNPOに連絡してはどうか、と云った。保証人サービスを提供している、実績のある支援団体だ。しかし、数ヶ月待ちとの話で棚上げになった。

 きのうはあっちの物件、今日はこっちの物件と、Aちゃんはよく出掛けた。選択肢がどんどん減ってゆく。
「もう限界。このままじゃおかしくなっちゃうよぉ」
 グラグラと頭を揺らし、ちょっとおどけてみせたりもしていたけれど、そのことばに偽りはなかったのだろうと思う。

 そこへ、部屋を貸すという不動産屋が、ようやく現れた。風呂もなくいつ取り壊されるかも知れぬ、かなり年代物の木造アパートだったが、しかしもう後がないというので、契約に及んだと聞いていた。

 引っ越しはいつになるのだろう。そんな折、けたたましく携帯電話が鳴った。
「Aちゃんがさ、帰ってこないんだよ」
 施設にいる知人からだった。そのころ、ぼく自身はさほどの苦労もなく、すでに転居を済ませていた。
「いつから?」
「アパートを借りるっていう日に出て行ったまま……」

 契約の日。Aちゃんは幾十万円の契約金を握りしめたまま、こつ然と消え去った。残された居室は荷物を持ち出した様子もなく、ふだんどおりだったらしい。ベッドの上に無造作に脱ぎ捨てられたシャツ。生活の跡が生々しかったと聞いた。

***

 Aちゃんは、ぼくの引っ越し祝いのパーティーにも参加してくれた。八年ぶりになるぼくの屋根のある生活を、やけにはしゃいで一緒に祝ったものだった。弱き者を助け、小ずるい考えも持たず、斜に構えるでもなく、荒っぽい様子も見せない。どうかするとゴロツキの類は、その迫力で他人を圧倒しようとするものだが、Aちゃんにはそういうところが一切なかった。

 大多数の人間は、武勇伝をどこかしら自慢気に話す。タフな男を気取りたがる。胸の奥底から絞り出すように悔いながら打ち明けた男は、後にも先にもAちゃんしか知らない。彼は恥じていたのだろう。武勇伝などという空威張りの裏側に潜む、冷酷なまでの人間の残虐さを。

「健次郎さんはヘタレだからなぁ」
 なにかにつけて手を貸してくれた。といって見下すそぶりはなく、対等以上、むしろ一目を置くぐらいに扱ってくれた。彼は漢(おとこ)だったのだと思う。

***

 電話を切って、しかしぼくはまったく驚いていない自分に気がついた。むしろ、自分がいかに社会のしくみに守られていたかを思っていた。
 布団に寝ころんで、真っ白な天井を見上げた。
 ――ヤツはいま、どんな天井を眺めているんだろうな?
 彼は将来を悲観したのかも知れないし、カタギの世界とやらのバカバカしさにうんざりしたのかもわからない。

 ぼくはなにがあっても二度と路上の生活に戻らないことを誓い、八年ぶりにこの天井を手に入れた。彼は目指した世界に弾き飛ばされ、あるいはあきらめて別の世界へと行き、おそらくこの天井よりはるかに上等なものを眺めているにちがいない。

 不意におかしさがこみ上げてきた。
 ――そこにあンタの居場所は見つかったかい?
 以来、今日まで、Aちゃんからの連絡はない。

 ときどき、相手先不明の電話が鳴る。
 真っ先に頭をよぎるのは、彼のことだ。
 おそるおそる、あるいはわずかに期待を持って、電話に出る。
 以来、今日まで、彼からの連絡はない。

(了)

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