「市民VSホームレス」から「自分たちVS問題」へ

スポンサーリンク

 人間、どうも「敵味方」という考えから離れられないようだ。「敵(ホームレス全部)VS味方(一般市民)」という構図から、「自分たちVS問題」という姿勢へとシフトしてゆかないと、立場のちがいによる軋轢はいつになってもなくならない。しかし、なかなかこうはゆかないようである。頭でわかってはいても感情がいうことを聞かないのかも知れない。

 以前、簡単にホームレスの分類を試みたが、こうした分類は行政はいうに及ばず一般市民にとってこそ必要なのだと思う。ホームレスと見ればなんでもかんでも十把ひとからげに論じてしまっては問題の解決策など出てきようもないし、「ホームレス」なることばでレッテルを貼りひとくくりにしてしまえば、「怠け者」「甘えている」「楽をしている」「好きでやっている」「迷惑」「臭い」「汚い」など、すべてステレオタイプの印象で認識されてしまい、個々人の事情やちがいなどまったく考慮されなくなってしまう。
「ホームレス? ありゃ甘えて怠けているだけだ。実にケシカランッ!」
 などというわけだ。

 レッテル貼りの利点のひとつは「思考の経済化」、つまり、すでにできあがった既存の価値観に従っていれば自分はなにも考えずに済んで楽チンだという面があるのだが、こうした画一的な見方はいわれなき差別を生み出すことにもなる。

 感情によって自分の意見を構築していればよいのなら話は簡単だ。だれがなんといおうと自分の考えを主張していればよい。好き嫌いとおなじレベルの意見だから、根拠など必要がない。しかし、当然に説得力は皆無となる。他者の意見との接点などありようもない。

 だが、科学的に考えようとするなら話は別になる。自分の感情が基礎になっている意見を棚に上げ、根拠あるものの上に理屈を積み上げられれば、それは他者に対しても説得力を持つことになろうし、なにより利己を離れることができる。このようにいったん利己を離れ、感情を基礎とした意見を棚に上げなければ、“問題”の解決には近づかないだろうと思うのだが、いかんせん世間には、まず自分の感情から出発してこの問題を論じている人がきわめて多い。それは批判派にしろ擁護派にしろ変わりがない。だから、いつまで経っても両者に接点が見えてこないのだ。なんとかならぬのか、ほんとうに。

スポンサーリンク