寄稿 「伝えたいこと」 (お節介おばさん@FALCON)

スポンサーリンク

今になっては、「ミッドナイト…」を発見して読むことになったきっかけが何だったのか、はっきり思い出すことができないのだけども、とにかく、「人が生きていることのかけがえのなさ」ということに関係して、いろいろ考えているときのことだったと思う。
地元にある「9条の会」の活動や、高齢者デイサービス施設でのボランティアなどを通して、人が生きていることのかけがえのなさを思えば、ホームレスの問題にもつながっていくのは当然のことだろう。

左翼的な言葉だと否定的に感じるむきも多いかと思うが、人権ということ。つまり、誰であれ、人は生まれてきた以上「生きていていい」のだ、ということだ。「人としてあたりまえに生きていく」それが何よりも大事だ、ということだ。逆に言えば、「死ねと言わんばかりの扱いを受けている」人びとがいるということ。

介護保険が始まった頃だったが、ヘルパー2級の資格をとって、高齢者のデイサービスで働き始めたとき、「福祉の専門家」だと思っていた先輩の職員たちの、あまりのレベルの低さに唖然としたものだった。看護・介護の最新情報に疎いだけでなく、組織で働く社会人としても、あまりにお粗末な連中だった。
介護保険という枠組みは、たしかに、この国の福祉予算を削るためのみせかけの制度である、と言えると思うが、介護の社会化という基本理念の方向は間違ったものではないとわたしは思っている。高齢になって体が不自由になった一人の人間に寄り添って、そのひとの自立を支える、社会が支える、ということは、そうあるべき姿だと思う。その家の嫁が自分を犠牲にして舅姑の介護をするのではなくて、誰であれ、一人の人間として生きるために、誰でもが介護を受けられる社会であるべきだと思う。

介護保険が導入されてまもない頃であったから、現場にも混乱があったにちがいないが、介護の社会化は、わたしには「家族の都合優先」と同義のように見えた。
「おばあちゃんにはお昼ごはんを食べさせないでくれ」
デイサービスで昼食をとって夕方帰宅すると必ず大量の排便があって、家族がオムツ替えに苦労するからと、昼食を制限するように希望があるのだそうだ。その希望を当然のように受け入れ、ベテラン職員は、食事介助についた新人スタッフに「あんまり食べさせちゃダメよ」と注意するのだ。

四肢麻痺のあるおばあちゃんのオムツ替えが大変なのはわかる。デイサービスの利用料を実際に払うのは家族なのだから、家族の要望を聞くのは事業者として当然だという理屈もわかる。しかし、大変なのを我慢してオムツを替えてやれ、というのではなくて、おばあちゃんの食事と排泄のパターンを把握して、訪問介護をケアプランに組み込もう、と考えるのが専門職ではないのか。おばあちゃんのオムツが汚れる頃合いにヘルパーが訪問してオムツ交換する、おばあちゃんには好きなものを美味しく食べてもらおう、と、そういうふうに考えるのが、介護職ではないのか。
介護アドバイザーとして多数の著書がある三好春樹というひとの講演で、「介護とは、人としてのあたりまえの生活を支えることである」という言葉を聞き、わたしは、目が覚めたような気がしたものだ。
人としてのあたりまえの生活というのは、口から食べ(介護者の都合で経管栄養にしてしまってはならない)、しかるべき場所で排泄し(介護者の都合でオムツを強いてはならない)、体を清潔にして、昼は楽しみ、夜は安心して眠ることである。(楽しみ、というのは「娯楽・遊興」だけではなくて、働いて充足感や達成感を感じることや、社会にあって人と触れ合い、自尊心を満足させることなどを含めて広く考えている)

医療的な必要から「胃ろう」処置を余儀なくされる場合はあるけれど、介護者の適切なかかわりで、口から食べる機能を回復することもあるのだ。人は、単に栄養のためだけに食べるわけではない。味を感じ、食べる楽しみを感じているのだ。(それが「贅沢やわがままなのか?」だ)

夜中に一人でトイレまで歩いていって用を足すことが、脳梗塞で片麻痺だから、転倒の危険がある、間に合わなくてもらすことがある、だから、夜はオムツをして寝ろ、と家族に言われる。しかし、子どもがおねしょをするのとは話がちがう。目が覚めて、意識がはっきりしていて、意識してオムツのなかに排泄して、そして排泄物と一緒に朝まで眠れない時間を過ごすのだ。こんな思いで生きているなら死んだほうがましだ、と思うのが当たり前だろう。

たとえどんな不養生な食生活をしてきた人でも、酒や賭け事や女で家族をさんざん泣かせてきた人でも、病気は「罰」ではないのだ。泣かされた家族が「罰が当たったんだ、いい気味だ」と思うのは当然だが、罰で病気になるわけではないのだ。脳梗塞で麻痺があって、人として当たり前の生活ができないのであれば、それを支える「介護」を受けるのが当たり前なのだ。

その人が好きだから、その人がいい人だから、その人がいつもにこにこお礼を言ってくれるから、だから介護をしてあげる、のではなくて、その人が人間だから、その人が人間として生きるのに不自由な部分があるから、そこを支えるのが介護者だ、そう確信して仕事をするのが介護職だ、とわたしは理解した。

どんな境遇にある人も、身体としての人間であることにかわりはない。包丁で胸を刺せば血が出る、死に至る。どんなに長生きといっても、200年も300年も生きるわけではない。誰でも、人は自然に年をとって死ぬのだ。「人としてのあたりまえの生活」ということを思えば、国家元首であろうと、インドの物乞いであろうと、高名な作家であろうと、隣の家の偏屈爺さんであろうと、公園のホームレスであろうと、すべて人は人間なのだ、ということが理解される。

わたしは、かつては特にホームレスに関心があったわけではないし、個人的にホームレスの人とつきあいがあったわけではないが、ずいぶん以前に、知人が「ホームレス入門」という本を書いたので、それを読んでからは、人がホームレスになるのは、その人なりの理由があったのだろうし、ホームレスといっても一人ひとりの人なので、一括りにはできないのだ、と知った。だから、なにかきっかけがあってホームレスについて検索しているときに「ミッドナイト…」に出会ったのだと思うが、わたしには、「ホームレスアカデミー」に書かれていることが、自然にするすると飲み込めたのだった。これは、ホームレスという特殊な生命体があるわけではなくて、「ホームレス状態にある『人間』」について書かれているものだからだ。

サイトの作者、健次郎という人にも、驚嘆の思いを隠せない。心身がボロボロになるような体験をしてきているのに、人間を見る目に曇りが無い。地を這って食べ物を漁りながら、高潔な精神を研ぎ澄ましていける人などめったにいるものではない。「ミッドナイト…」でわたしは多くのことを学んだ。そして、健次郎という人が、最低限、「人としてあたりまえの生活」をおくれるように、なんとかして支援したいと思った。

食べ物の味を味わって食べ、しかるべき場所で排泄し、昼間は楽しみ、身体を清潔にして、安心して眠る生活をおくってほしいと思った。それが人間としての基本だと思うから。彼が、その知性と感性をその人生に生かしていくための足元を固めてほしいと思った。

しかし、彼はネットでしか出会えないのだ。

衣類や毛布は、受け取ってもらえるところには、寄付ができる。これまでに、救援衣料センターに衣料品を送ったことはあるが、住所を持たない人に送ることはできない。では実際にどこかに出向いて直接会ってなにかを手渡しすることができるだろうか? 単にサイトにアクセスしてきた、というだけのこちらの存在を、彼は信用して、物を受け取るために、姿を現すだろうか?

家の近所で、時おりホームレス(としか思えない人)を見かけることがあった。自転車で買い物の行き帰りなどに見かけた。その人にも、もちろん、「人としてあたりまえの生活」を送ってほしいと思った。しかし、わたしがそこで、自転車を停めて、おりて、彼に話しかけて、彼になにかを与えることができるだろうか?

わたしが経済的に豊かで莫大なお金を自由に使えるのであれば、健次郎さんだけでなく、何人もの人が暮せるように、住居を提供したいと思う。離れの部屋でもあれば、住んでもらいたいと思う。

しかし、食うに困ってはいないものの、一介の主婦であり、日常の雑事に追われている自分にどれだけのことが出来るというのだろう。確実にできることは、サポーター募金として、現金を送ることだけだ。何よりも、現金は一番有効なものだし。

わたしは、出来ることなら、健次郎さんには生活保護を受けて生活の基盤を確保してほしいと思った。心身の健康を確保してほしいと思った。わたしの、あるいは誰か個人の支援でどうなるというものではない、人は、社会が支えるものだと思うから、人間としてのあたりまえの暮らしを確保するための現実的な手段として生活保護を生かすべきだと、わたしは思う。

しかし、健次郎さんは一人では、福祉事務所に出向いて、施設に保護されることはなかった。彼を支援しようという人が彼を連れて行ったと読んで、そういう人が現実の彼の身近にいたことを嬉しく思った。彼に住まいを与えたいと思いながら何もできず、暖かいものを食べてもらいたいと夢想する自分を恥じるばかりだった。

しかし、見ず知らずのわたしが出かけて行って、彼を説得して福祉事務所に連れていくことがはたして出来ただろうか。わたしでなくとも、見ず知らずの誰かが、いきなり話しかけて彼に信用されるだろうか。

生活保護を受けさせてそこから金をまきあげる「貧困ビジネス」があり、生活保護を不正に受けて遊び暮す人びとがいて、さらに、人を枠にはめて矯正することを自立支援と信じる援助者も多いときては、生活保護などクソ食らえという気持になるだろうが、だからと言って、生活保護のあるべき姿がそういうものだ、というわけではない。派遣村で有名になった湯浅誠が書いていたが、生活保護の不正受給の問題よりも、受給して命をつなぐべき人びとが受給できない問題のほうが優先順位が高いのだ。生活保護という社会システムが、あるべき姿で機能していない現実が問題なのだ。

生活保護を受けることを、悪魔に精神を売り払うかのように思うことが、そもそも間違っているとわたしは思う。人は生きるべきだ。生きるために最低限必要なものを社会が提供する、そういう社会を、この社会に生きている人びとが共に支える、それが出発点だとわたしは思う。

たとえば今の時代、会社勤めのひとは当たり前のように「有給休暇」がある。実際に休めるかどうかは別として、制度はあるし、土日の休みも当たり前の世の中になった。しかし、わたしには、イギリスの産業革命以後、労働運動を弾圧されて死んだ人びとや、先の大戦で死んだ夥しい数の人びとの累々たる死体が、「有給休暇」の向こうに見える気がする。東京大空襲や、もちろん広島・長崎の原爆、重慶やドレスデンの大量虐殺なども含めて、夥しい数の死者とひきかえに、わが国の人びとは「人権」を手に入れたのだ。人は、誰であれ、生まれてきた以上「生きていていい」ということだ。生きている人びとつまりわたしたちがこの国の主体であると明記された憲法を手に入れたのだ。生まれた土地がどこであれ、住む所や職業を強制されることもない。親の都合で子どもの時分から働かされることもない。
頭でっかちの観念的な左翼思考だと笑いたければ笑えばいい。しかし、健次郎さんだけでなく、あなたもわたしも、すべての人が生きていることのかけがえのなさは、この日本国憲法で担保されていることを否定はできないはずだ。

健次郎さんには、生活保護と言う社会のシステムを利用して、自らを生かしてほしいと思う。住まいを確保し、安心して眠ることができれば、いろいろなことが可能になるはずだ。定まった住所があり常に連絡がとれる状態であれば、ウェブデザインの仕事も受注できるだろう。コンピュータ関連の仕事を請負でやりながら、福祉関連の勉強をし、人脈を広げていって、ホームレス支援の相談業務を仕事にすることもできるだろう。生活保護を必要としなくなるときも遠いとは思えない。福祉団体に就職することが唯一の道ではないはずだ。

今は、どんな人でも簡単に就職などできる時代ではない。100通を越す不採用通知を受け取ったという話も珍しいとは思えない。しかし、人は、拒否され続けていても一箇所だけ自分を受け入れてもらえる場所があれば、なんとか持ち堪えて前に進めるのだとわたしは思う。自分を受け入れてもらえる場所というのは、言ってみれば家庭だと思う。一人暮らしであっても、自分が素の自分でくつろいでいられる部屋が家庭だ。お仕着せの給食ではなくて、自分だけのために調理した食事をとる、ということだ。

栄養のバランスのとれた消化の良いものを食べて身体を温めるだけで、気持が前向きに変わっていくことは、わたし自身何度も経験している。心身ともに疲れ果てて、空腹なのに何も食べられない夜は、温めたミルクを飲んで眠った。一人暮らしで、愚痴を聞いてくれる人がそばにいなくても、自分の部屋が、自分の持ち物が、自分の居場所が、わたしを癒してくれた。不採用通知ばかり届いて落ち込んでも、また一から出直せばいい、と思えた。

しかし、施設に寝泊りしているのでは、「家庭」とは言えないし、どう考えても健次郎さんが、心身の滋養になる食事がとれているとは思えないのだ。そんな状態で就職活動をしているのは、一からの出発ではなくて、かなりのマイナスからの出発に違いない。

どんなに恵まれた人生であっても、人が生きていく以上避けられない苦難はあるものだ。耐えなくてはいけないものは、長い人生にたくさんある。ほんとうに自分ひとりで受け止めて耐えなくてはいけないときのために、こころのエネルギーは無駄遣いしないがいい、とわたしは思う。頼れるものがあるときは、それを頼ればいいじゃないか、とわたしは思う。

生活保護を受けることは、沈没する船から自分だけ助かろうとすることなのか。生活保護を受けることが、そのまま他者への依存を意味することなのか。

自分だけ助かろうとすることであっても、それはそれだ。他者への依存であっても、それはそれだ。生活保護を受けてそれに甘えきって自立の意欲を失ってしまうひともいるだろう。そういうふうな生活保護受給者もいるだろう。人間のやることだから、いいことも悪いことも上手いも下手も、いろいろあるはずだ。しかし、それらは生活保護というシステム自体の問題ではなくて、個々のケースの問題だ。生活保護の本来の機能を、健次郎さんなら、自分を生かすために使える、とわたしは思う。

自分を生かさずにどうやって人を助けられるというのか。

人は一人では生きられない。生身の人間は、病気にもなる怪我もする、本人一人の能力や努力だけではどうにもならないことがあるのだ。お互い様で助け合っていくのが人の世の中だ。一人の力には限りがあるものだから、社会がひとびとを支える。わたしたちの税金は、そのために使われるものではないか。

公園で寝泊りしている汚い連中のために自分の税金を使われるのが嫌だ、と思うむきも多いようだが、わたしたちの税金が、人殺しのために使われていることには平気な人が多い。どれだけの額のわたしたちの税金が、いつ使うと決まったわけでもない武器兵器のために使われているかを思うと、わたしは言葉を失う思いだ。公園でしか寝る場所の無い人に住まいを与えるのにいくらかかると思うのか。特別養護老人ホーム一棟を建設するのにいくらかかると思うのか。戦闘機1機、イージス艦1隻、いま無くても困りはしないだろうに、その金をこっちへ回せよ、と思わないか。

今そこで弱って倒れている人、疲れ果てて動けなくなっている人を助けるために、税金を使わなくてなにが税金か、と言いたい。福祉のためのわずかばかりの予算を奪い合って、貧しいものたち同士でいがみあっている場合じゃないだろうに。

江戸幕府は身分制度で人びとを分断することによって人びとを支配してきた。今でも結局同じことをやっているのではないかとわたしは思う。食っていけない若者が食うために兵士になっていく世の中を、その食っていけない貧しいものたちが自ら作っているように見える。生きるために選んだ道は、死に至る道であるという皮肉だ。

しかし、健次郎さんは、みずから選んだみずからの道を歩くだろう。それがどのようなものか、わたしにはわからない。わたしはこうやって伝えたいことを伝える、それしかできないと思う。あとは、できるかぎりサポーター募金を送るだけだ。

すべての人の、いのちのかけがえのなさ。ただひたすら、それを思う。

わたしは、わたしに出来ることをできる範囲でやっていく。わたし一人にたいしたことができるわけがないが、わたしたちは、読み書きもでき、知識も得られる世の中に住んでいるのだ。知らなかったではすまされないのだ。誰も教えてくれなかったという言い訳は通用しないのだ。そして、どんな小さなことでも、あたりまえのことでも、なにもやらないよりはいい。

わたしは、今後も「ミッドナイト…」を読み、健次郎さんを応援したい気持を持ちつつ、もうこれ以上、なにも言うことはないと思う。(書き忘れがなければ、だけど)。
健次郎さんにはたくさんのことを学ばせてもらった、その感謝の気持も、あわせて伝われば幸いである。

※興味のある方はこちらもどうぞ
FALCON’S ROUND TABLE

スポンサーリンク