どうでもよいこと、どうでもよくないこと

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ここしばらく、なにも書く気が起こらない。いや、実際には、なにかいろいろ書いてみたりはした。世間では実にさまざまなことが入れ替わり立ち代わり起こっていて、ぼくだって人並みにはなにごとかを考えてみたりはするのだ。

星野仙一さんが槍玉に挙げられていた。この人が叩かれるのはしかたがない。兵が優秀でも指揮官が暗愚ではいくさに勝てない典型だからだ。選手たちは犬死にしたも同然であった。だが、星野さんはそのケジメをつけず、スジも通さなかった。これはイジメだとかいって逆ギレさえする始末だ。

かつては力強い男だとか抱かれたい男だとか理想の上司だとか祭り上げられていたけれど、いったい人々は彼のどこを見てそう感じたのか。理解できない。そんなものは創作された虚像に過ぎまい。熱血漢などともいわれたが、彼は我慢や辛抱ができないだけの男だ。実像は、決しておのれの非を認めることのない、なんでもかんでも他人のせいにする自己愛主義者であろう。

やけに早く福田康夫首相が辞任するという。人気がなかったらしい。リーダーシップがないともいわれたが、この人は「リーダー」ではなく「マネジャー」のタイプなので、先頭に立つより実務で能力を発揮するたぐいである。リーダーシップをうまいこと演出した小泉純一郎さんとは対照的だったが、適性をまちがえてトップに立ってしまったのだろう。お気の毒に。

次の首相は麻生太郎さんだ。大久保利通とか吉田茂の子孫である。2ちゃんねるに書き込むこともあるそうで、若者にもウケている。しかし、醜い人間の本性が剥き出しのままさらされている2ちゃんねるなどに関わるような人物が首相になって、この国は大丈夫なのか。近年普及したもののうち、2ちゃんねるほど下衆で醜悪なものはない。酒飲みだったり女好きだったり博奕好きだったりするほうが、まだしもかわいげがあろう。

大麻をやったというので、ロシア人が3人ほど力士をクビになった。だが、うちふたりは大麻の吸引を否定し徹底的に争う構えで、ことの真相は法廷が示すことになりそうである。

気になったのが親方だ。露鵬の師匠だった大嶽親方(元関脇・貴闘力)は疑惑のさなか、
「本人がやってないというのだから信じるのが親」
というような意味のことをいっていて、これはあっぱれだと思ったものだ。世界中を敵にまわしても弟子を守ろうというのである。血のつながった実の親ですら、なかなかこうはいえまい。

結局、協会は露鵬をクビにして大嶽さんも降格となったが、意気は立派だった。信じた以上、法廷でクロと出たら心中する覚悟だろう。仮にそうなっても、まちがっても、
「裏切られました……」
なんてぇ逃げだけは打ってくれるなよ。

……とまぁ世間をにぎわす話題に、ぼくもあれこれ思いをめぐらせてみはするものの、だが、これらはどうでもよいことのような気がするのだ。世俗の話題は結局は単なる話題に過ぎず、根本的には退屈しのぎでしかない。人が生きてゆくうえでは大して意味がないことである。もっと大切なこと、なにか人が生きてゆくための糧になるようなことを考えたほうが、よほど意義深い気がしている。

近ごろ気になっているのは「素直」ということである。だいたい歳を食ってくると世間の垢にまみれ、誰でも素直なんてことからははるかに遠ざかってしまうものだけれど、ぼくはそれに輪をかけてひねくれているものだから、このブログを「素直」という視点で読んでみると、それこそグチャグチャにねじれまくっていて、どうにも自分で自分を許しがたいのだ。

素直にならなくちゃいけない。いや、素直にならなくちゃいけないというその思いが、すでに素直じゃない。素直に「素直にならなくちゃいけない」と思えなければそれは素直じゃないので、素直を強制することがすでに素直じゃないのだから、それは素直じゃないのである。あぁ~ん。

素直とはバカのことだろうか? 人を騙したり引っ掛けたり出し抜いたり、策を弄することがあたりまえ、むしろ奨励されるような社会で、ある意味では素直さはバカであろう。あるいは別のいい方をすれば、素直であると「バカをみる」世の中である。結局、素直はバカにつながってゆくけれど、しかし単なるバカであることを褒められるわけもないから、そういうことでもあるまい。

素直は「正直」ともちがう。正直とはウソをつかないことだが、その基準は自分にある。たとえば「自分の気持ちに正直」ということがあるけれど、その自分の気持ちがまちがっていることもある。素直とは、気持ちがまちがわないように、まちがった気持ちが起こらない元となる基準であろう。

ウソは自分で判断がつくが、素直でないことは自分ではなかなか気づかない。正直さは論理だけれど、素直さは感覚である。あぁ、そうか。書いていてわかった。そうか、素直さは感性なのだ。そうだったのか。

感性は脳ミソから生まれるものではなくて、自然から生まれるものである。頭で考えるのではなく、心で感じるものだ。それは人間が自分の都合で作ったものではなく、自然から発生しているものだろう。だから、考えはまちがうが、感性はまちがわない。自然の理にかなっているのならば、まちがうはずがないのである。

素直であるということは、おそらく自然の理にかなっていることなのだろう。理を外れれば、いずれはまちがった答えが返ってくる。世間を見ればよくわかる。得てして頭のよい人ほど策を弄し策に溺れ、手痛いしっぺ返しを食らうものだ。いかに頭がよかろうと、所詮は人間の考えることである。自然が人間にひれ伏すことはない。自然の理は、個人の都合とは無関係に存在するのだ。

素直に生きられれば、と思う。納まるべきものが納まるべきところに納まるような、自然の理の中に生きたいと願う。バカでもよいから素直に生きて、あとは自然の理に任せたい。

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