ギリギリの厳しさを探して

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古い記事をざっと整理している。こんなことを書いたか、と自分で驚くようなものもあって、恥ずかしいやらなんやら、なかなかに楽しい発見でもある。だが、ギリギリの状態で書かれたものは、今読んでも楽しい気分にはなれない。追い詰められて醜態をさらすその姿を読み返すにつけ、あの崖っぷちの気持ちはなんだったのだろうと思わずにはいられない。

それは金銭だけの問題ではなかった。収入がなくなった、手持ちもない、助けてくれ、というそれは、では道ばたにお金が落ちていれば解決したのかというと、決してそうではなかったのである。そこには、這いつくばるようにしてネットカフェまでやってきて、キーボードの上にことばを叩きつけつづけてきた決死の思いと、だがしかしそれがまったく無益であったことに対する怒りと哀しみがないまぜになった、引き裂かれた感情であったのだ。

ハンマーで心を粉々に打ち砕かれるようなあのギリギリの思いは、お金があれば大丈夫という類のものではない。そこには別のなにか、即物的なものではない別のなにものかが必要だった。

こうしてネットカフェに泊まっている今現在を、ヌルい、と思う。しかし、たとえ明日の晩から公園のベンチで寝ることになったとしても、やはりそこに以前のキツさはもうないかも知れない。お金がない、食べるものがない、ということではない別のなにか。このブログをつづけてきたことの意味は、まさにそこに見出されるのかも知れない。

かつてのキツさは二度とは体験したくはないけれど、しかしやはり今はヌルい。生命が死と隣り合わせというよりも、むしろ心が死と隣り合わせだった路上の戦場は、帰るべき場所ではないにしろ、それはそれで確かになにかを実感する時間でもあった。楽しさと喜びによってではなく、厳しさと苦しみによって、しかしぼくは確かに何者かであった。死んだように、しかし生きていた。その時間を否定することはできない。

***

「厳しい」とは、いったいなんだろうか? あの冷たい雪の吹きつける、身も心も凍りつく明け方に、ぼくはなぜ路上をさまよったのだろう? スニーカーの中を這いまわる氷のように冷たい水がつま先までを麻痺させて、叩きつけてくる白い悪魔が傘を持つ手をだいだい色に染めてゆくのを見つめ、そうして食いしばった奥歯が砕け散る音を聞きながら、どうして路上を歩きつづけたのだろう。なぜ逃げなかったのだ? 駅、ビル、コンビニ……。逃げる場所はいくらもあったはずなのに。

それに比べて、今のこの生活はなんなのだろう。死の淵に追い詰められることもなく、仕事と称してただ日々を、時間をやり過ごすだけである。破裂寸前の風船に鋭利なカミソリを這わせるような、髪より細い絹糸を切らさずに引っ張りつづけるような、弾が出る直前で銃の引き金を留めておくような、電気を浴びたように全身がヒリヒリするあのギリギリの感触は、今はもうどこにもない。ヌルい、と思う。あまりにもヌル過ぎる。甘っちょろくて反吐が出る。

ネットカフェの干乾びたリクライニングシートで、あるいは硬く湿ったウレタンのマットレスで、あるいはゴキブリの這う薄汚いちいさな畳の上で、そしてときにはホテルの温かなベッドの中に横たわり、しかしその心地よさゆえに眠ることもできぬままもがいて喘ぎ、やがてうっすらと明るくなってゆく窓を睨み据えながら迎える朝も、それは明日すら定めのつかぬ暮らしであるとはいえ、路上という名の戦場には比べるべくもない、甘っちょろい生活なのである。

「厳しい」とはどういうことなのか。「ギリギリを生きる」とはどういうことなのか。街なかを歩きながら辺りを見渡してみても、その答えを見出すことができにくくなった。ふだんの景色を眺めていると、あるいはこうして日々を生きていると、過去と現在の経験が摩擦を起こし、擦り切れた神経が悲鳴を上げることが多い。ギシギシと音を立てて、しかし今日もまた、ヌルい時間が過ぎてゆく。

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