ある引っ越しにて

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ぼくは途方に暮れたまま、呆けたように立ち尽くしていた。あらかたの荷物はトラックに積み込んだが、洗濯機だけがどうしても動かせないのだ。中はほとんど空っぽのくせに、底のほうに重たいモーターかなにかが詰まっているのだろう。低重心でひどくバランスが悪くて、ひとりで運ぶには重過ぎるのだった。

十年以上前の引っ越しの話である。少しでも費用を浮かせるために、ぼくはすべてひとりで引っ越しを片付けようとしていた。いや、家賃を払えなくなって追い出されたので、正確にいえば費用を浮かせようとしたのではない。レンタカーを借りるのが精いっぱいの、心もとないふところ具合であったのだ。それが仇(あだ)となろうとは。

部屋が二階にあったのも災いした。蔵書を詰め込んだ段ボール箱を抱えて階段を上がり降りすること十数往復に及び、それだけで足腰がメロメロになってしまう。おまけにベッドなどなんだのと、重くかさばるものがあり、そうして最後の洗濯機という段になって、もうぐうの音も出ないのだ。

アパートの外階段に腰を下ろし、へたり込んだ。トラックも時間貸しである。超過料金までは計算に入れていないから、もたもたしているわけにはゆかない。といって、だがこの洗濯機、どうするか。運ぶのが無理ならばいっそ、このまま捨て置くか。しかし、貧乏暮らしの中、ようやく手に入れた洗濯機であった。次にいつ買えるかなど、想像もつかない。不経済なコインランドリーまで、またぞろえっちらおっちら洗濯物を抱えてゆかなきゃならないのか。貧乏人は洗濯機すら持ってはならないのか……

ため息をついていると、ふと、道路からこちらに歩いてくる人影が眼に入った。向かいの部屋の奥さんである。軽快に階段を上る途中で足を止め、にっこりと微笑んでくる。これまで幾度か見かけたことはあるのだが、ワンルームアパートに住む者同士ではよくあるごとく、ことばを交わしたのはこのときが初めてであった。

「アー、引ッ越シ? タイヘンネー」
日本語がたどたどしい。ラテンな顔つきからしておそらくブラジルあたりの出身だろうが、あるいはスペインの血でも混ざっているかも知れない。
「いやぁ、荷物が多くてねぇ。ははは」
ぼくは力なく笑って見せた。

一服つけながらしばらく立ち話となった。六畳一間のこの狭いアパートに、なんでも家族四人で暮らしているのだという。旦那がいるのは知っていたが、大きな子供もふたり住んでいると聞いて驚いた。
「この狭い部屋に四人で? そりゃぁたいへんだねぇっ!」
「モノ、高イ。キューリョー、安イ。オカネ、ナイネ」
ニコニコ笑いながら平気でそんなことをいう。
「おー、いえーす。俺も、のーまねー、のーまねーだよぉ。はっはっはっ!」
べつに英語もどきで答えなくてもよいのだけれど、なんだかこちらもつられてしまうのである。日本は長いようだったが、それでも故郷(ふるさと)を離れ見知らぬ国へとやってきて、苦労もしただろう。果ては、こんな狭い部屋に家族ともども押し込められての貧乏暮らし。日本人なら辛気臭くもなろうが、それにしてもラテン系は明るい。

「さてと……」
ひとしきり話し込んでから腰を上げ、ぼくは再び洗濯機と格闘しはじめた。とにかくこいつを下まで運ばなければ話にならない。もうこうなったらと、委細構わずズリズリと引きずって、ともあれ階段の一段目には下ろした。よし、ここから一段一段、ゆっくりと下ろそうじゃないか。それをつづければ、いつかは下まで下ろせるってもんだ。

そこで予想外のことが起きた。洗濯機は階段のへりにどっかりと腰を下ろしたまま、まるで寝込んだ酔っ払いのように、そこからまったく動こうとしないのだ。超低重心だから上部ばかりがグラグラし、腰から下はびくともしない。支えていなければ下までまっさかさまだが、といって上げようにも下げようにも、にっちもさっちもゆかない。ぼくは酔っ払いのような洗濯機を両手で支えた格好のまま、階段の途中で身動きできなくなってしまったのだった。マズい、どうしよう。こりゃかなりヤバイぞ……

そのとき、ぼくの様子を眺めていたラテンの奥さんが、突然いった。
「待ッテ待ッテ、ソレ、ヒトリジャ無理ヨ。今、息子ガ……」
え、どういうこと? 思う間もなかった。
「アー、イイトコロニ帰ッテキタ。コノ人、手伝ッテアゲテーッ!」
奥さんが叫んだ先に、ぼくは眼を転じた。背の高いがっしりとしたハンサムな若いイタリア人が、階段を駆け上ってくるところだった。いや、ぼくにはイタリア人にしか見えなかった。

「なに? どうしたの?」
イタリア人の青年が、ごくふつうの、あたりまえの日本語で話した。
「コレ、息子ヨ。アンタ、コノ洗濯機、運ブノヲ手伝ッテ」
「いいけど?」
いうなり若いイタリア人は、事態を飲み込めずにいるぼくを横目に洗濯機を両手でわしづかみにし、ぐわっと持ち上げて階段をすべるように下り、休む間もなくとっととトラックに積んでしまった。ぼくは慌ててうしろを追いかけた。手をはたきながら振り返り、ヤングイタリアンがいった。
「荷物はこれだけですか?」
「え? えぇ、この洗濯機で終わりです。これだけが運べなくて……。ありがとうございます。いやぁ、ほんとうに助かりました」
ぼくは息を吐きながらイタリア人の手を握り、礼をいった。何度も頭を下げた。まさに救われた気分であった。
「じゃ、どうも」
イタリア人青年はなにごともなかったかのように、さっさと部屋に引っ込んでしまった。
ぼくはラテンの奥さんのところへゆき、深々と頭を下げた。
「ほんとうに助かりました」
「オ安イ御用ヨ」
にっこりと笑った、それが奥さんの返事だった。

慣れないレンタカーを慎重に、しかし急がせて運転しながら、ぼくは今しがたのラテン家族の姿を噛み締めていた。ほんとうに助かった。あのままだったら、いったいどうなっていたか……

ひとりでは運べない荷物がある。では、運ぶのを手伝う。確かに、なんでもないことなのだ。けれど、そのなんでもないことを、簡単にできる人はあまりいない。ましてや実際にそうしてくれる人になど、この国では滅多にお目にかかれない。彼らが日本人だったら、おそらくなにもしなかったろう。それを異国からきたラテンの奥さんが、
「オ安イ御用ヨ」
と笑顔でいってのける。それはまったく思いがけないことで、なんともうれしく、そしてありがたいのだった。

「……いやぁ、ほんとうに助かったなぁ」
ぼくは実にうれしくなって、部屋を追い出されたことなどすっかり忘れ、久々にうきうきした気分で車を走らせつづけた。

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