悪党という厄介な生き方

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悪党という生き方は存外に厄介だ。「自分の正しさを信じない」からである。

ふつうの人間は自分を正しいと信じたいので正しさを主張し、相手を打ち負かそうとするが、悪党が主張するのは自分が正しくないことの証明のためである。相手を打ち負かそうとすることが、彼にとってはすでに正しくないからだ。彼は自分の正しさを裏切ることで、自らの悪を証明しようと試みる。すべての悪は、まず自分への裏切りが発端なのである。

善人であると思えば、自分の正しさを信じて行動することができる。自らを信じ、迷わずに正しいと思う道を突っ走ってもゆける。だが、悪党はおのれを信じず、そうして自分のまちがいさえ知っているのだ。それでいて善人のように突っ走る。おのれを信じていないにもかかわらず、いや、まちがいを知りながら、それでも突っ走ってしまう。

ならば、正しいほうへと舵を切ればよいのだが、そうはしない。なぜか? 自分の正しさを信じないようにするためである。「自分は正しい」というポジションへ、自分を導かないようにするためだ。自分は正しい、ではまちがっているのは相手だ、悪いのは相手なんだ、自分が正しく相手が悪い、というポジションへ、自分を置かないためである。

もうひとつ、悪党という生き方が厄介な理由がある。容易に立ち直れないことだ。立ち直るには自分のすべてを否定し、文字どおり「これからは心を入れ替えて生きて」ゆかなければならない。そうしなければ周囲はまったく納得しないのだが、自己否定が人間性の破壊につながることは、メンタルヘルスの面から明らかである。

実は、立ち直るのには効果的な方法がある。「自分を受け容れること」、すなわち自己受容、自己肯定の道だ。今の自分を赦し受け容れて、これでオーケーなんだと自分にいってやれるようになることである。しかし、これでは周囲が納得しない。

とりわけひどく傷つけられた人間は、こうしたやり方を決して承知しない。あたりまえである。自分を傷つけた悪党がそれでいいんだと、そういう悪党自身でオーケーなんだといって立ち直るなど容易に赦せるものではないことは、すぐに想像がつく。傷ついた側は、自分を傷つけた悪党の悪を正し、償いをさせたいのだから。

そうしたわけで、悪党は容易に立ち直ることができない。実は、善人でいるよりよほどむずかしい生き方なのである。善人でいようとすることなど、わけはない。自分は正しく善き人間なのだと信じてしまえば済むことだ。だが、悪党はそうやすやすと自分を信じたりはしない。それゆえ、厄介な生き方なのである。

なにいってるかわからん? わからんでけっこう。わかろうがわかるまいが、それが悪党という生き方だ。

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