闇を照らせるのは光だけ

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ホームレス支援のボランティアさんを批判する人たちは、むかしよくこんないい方をしていたっけ。
「そんなに支援したきゃ自分の家に住まわせればいい」
「全財産をなげうって援助すればいい」

まぁこんな意見をまともに扱う必要はないんだけど、ホームレス支援に限らずなにがしかの援助活動に携わる人の中には、こうした「自己犠牲」の精神を大切にしている人も多いよね。自分の生活を犠牲にしてまで誰かを助けようとするその精神、あっぱれというべきか、ぼくなんかにはとても真似できないっす。

たださ、あまり犠牲を出しちゃうのもやっぱりマズいと思うのよ。ふつう、犠牲ってのはマイナスじゃん。自分がマイナスになって相手をプラスにしても、プラスマイナスゼロじゃんか。そんなの意味ある? だってゼロサム・ゲームだぜ? なにも生み出してないもんね。

犠牲っていってもさ、自分もプラスになったほうがいいよね。相手をプラスにして自分もプラスになる。危急のときならともかくも、それが日常的な意味での犠牲だと思うんだよね。誰かを幸せにした代わりに自分が不幸になっちゃ、相手だって結局は不幸になっちゃわない?

自分を不幸にしちゃう自己犠牲って崇高のようにいわれているけど、俺はぜんぜんそう思わない。よほどの場合でなければ、自分も一緒に幸せになんなきゃ意味がないと思わない?

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たとえば一所懸命になにかに打ち込んでいる人がいてさ、そのために家族とか恋人とか友人とか仕事とかを犠牲にしてたら、これもやっぱりマズいと思うんだよね。ひとつことを懸命にやり遂げようとするのは正しいと思うしそのはずなんだけど、ひとつことしかやらないのではマズいよね。

ワーカホリックっているじゃん? 仕事ばっかりしてる人。なんでも仕事優先の人。仕事人としての役割しか果たさない人。するてぇとたとえば家族持ちなら、最後にゃ家庭崩壊で離婚になっちゃうわけじゃん。恋人が年がら年中、仕事のためにデートをすっぽかしてばかりいたら、やっぱり別れちゃうじゃん。夫とか妻とか父親とか母親とか恋人とかの役割をまるきり放棄しちゃったら、人間関係はつづかないじゃんか。

ひとつことに打ち込みながら、同時に、同時にだぜ? 同時に平行して他の役割もこなしてゆかないとさ。ひとつことだけできたって仕方ないよね? この道ウン十年、ナントカをどうさせたら右に出る者なし。まさに超一流の腕前は国宝級……。だけど、妻にゃ逃げられ子供にゃそっぽを向かれ、家庭はグチャグチャ。しかし、ナントカを取らせたら右に出る者なし……って、それじゃぁなんだかちょっと哀しい。

全力でなにもかもをひとつことに打ち込むことって立派のようにいわれているけど、俺はぜんぜんそう思わない。身近な人間を幸せにしなかったら、他のひとつことに打ち込んだって、いったいなにができるんだろうって思わない?

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闇を照らせるのは光だけ、ってことがある。闇が闇を照らすことはできない。闇を照らすなら自分が光にならなければいけない。闇と闇、似たもの同士だからこそ引き付け合うのだけれど、闇を照らすなら自分が光でなきゃいけない。自分の光を徐々に強めながら、同時に、同時にだぜ? 同時に平行して相手を照らし出してゆく。それが素敵な「人のため」だって思う。

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